作家・原田伊織氏 西郷隆盛は粘着質のテロリストでした
NHK大河ドラマ「西郷どん」が薩長同盟まで進んだ。西郷隆盛が明治維新のために奔走する姿は痛快でもある。そんな折、「虚像の西郷隆盛 虚構の明治150年」(講談社)という本が話題になっている。同書によると西郷の実像は現代人がドラマなどで接している西郷像と正反対で、粘着質で非情な性格だったという。西郷とは何者なのか、なぜ「大西郷」のイメージがつくられたのか。著者に語ってもらった。
■財務省もビックリの公文書偽造
――上野公園の銅像などから、西郷隆盛は体と目が大きくて他人に対して寛容。何事にも正々堂々と向き合った人物との印象を受けます。実際はどんな性格だったのですか。
彼の特徴的な性格は大きくは2点。1つは何事も腕力で解決したがる武断派であること。もう1つは粘着質です。粘着質とは思い込みが強いと言い換えてもいいでしょう。西郷は一度他人を嫌いになったら死ぬまで嫌い続けました。いい例が主君・島津斉彬が死去したあと国父となった久光への態度です。実質的な藩主に向かって「地ごろ」という侮蔑の言葉を吐きかけて怒りを買い、結果的に2度目の島流しを受けています。西郷は自分の主は斉彬しかないという思いが強く、その反動として久光に反感を抱いた。職場の同僚や上司とうまく人間関係を構築できないタイプだったのです。
――武断派とは。
マキャベリストという言葉があります。目的のためには手段を選ばない人をいうのですが、西郷はまさにそれ。何事も暴力で解決しようとする危険な人物でした。たとえば、徳川慶喜が大政奉還を果たし、朝廷側が王政復古の大号令を発したあとに行われた小御所会議。この会議で土佐藩の山内容堂が慶喜を出席させなかった岩倉具視を批判します。西郷は慶喜の命を奪いたいとさえ思っていたため、正論を主張する容堂が目障りで仕方ない。そこで西郷は「短刀一本あれば片が付く」と発言します。「ガタガタ言うなら刺せばいい」という意味のこの言葉が人づてに容堂に伝わり、容堂はひるんだ。その結果、慶喜の官位と領地を没収することが反対なしで決まりました。西郷は万事暴力で解決しようとする武断派であり、テロリストだったと言えます。
――なぜ、こんな性格になったのでしょうか。
福沢諭吉は西郷の一面を評価しましたが、「西郷の罪は不学にある」とも言っています。学問を積んでいないのです。だから緻密に考える頭脳がなく、話し合いが苦手。考えの異なる人ときちんと議論できず、何事も暴力でぶっ潰せばいいと考える。彼が徳川幕府を倒すという目標ばかりに目を奪われたのは不学による暴力性があったからだと考えられます。これが長州にとっては都合がよかった。
――西郷のこうした暴力性は昭和初期の軍人を思わせるものがあります。
そのとおりです。昭和11(1936)年の「二・二六事件」では青年将校ら約1500人が首相官邸などを占拠し、高橋是清ら要人を殺害しました。彼らは西郷のように「問答無用!」と暴挙に走った。西郷と長州が残した野蛮な成功体験を受け継いだのです。この二・二六事件のあと、軍部はさらに「問答無用!」の性向を強めて国民を巻き込み、太平洋戦争に突入した。西郷は戊辰戦争に突っ込んでいきました。