動燃のエースは米研究所に留学し「プルトニウム四天王」に
旧動燃の人事部が未払いの手当を支払うため、竹村達也の転職先と思われる会社に電話した。だが「そんな人間はいない」という答えだった。家族との連絡も途絶えていた。私は、失踪した竹村の転職話は架空だった可能性が強いと考えた。
そもそも、竹村はなぜ動燃を退職したのか。動燃は当時、日本政府のミッションを受けた最前線の原子力研究所だった。あえて民間に転職するというのは、いわば都落ちだ。
私は竹村の動燃での仕事人生をたどることにした。
竹村が大阪大学工学部を卒業し、動燃の前身である原子燃料公社に入社したのは1958年4月。日米原子力協定が結ばれた年である。
原子力技術は、原子爆弾を造る研究がもとになっている。アメリカは広島と長崎に原爆を炸裂させ、原子力技術で世界をリードした。だが第2次大戦後はソ連が1949年、イギリスは1952年に原爆実験を実施する。アメリカは原子力技術を独占することができなくなった。
アメリカは原子力技術が欲しい国と個別に協定を結んで、世界に原子力技術が拡散しないようにした。「アトムズ・フォー・ピース」。アイゼンハワー大統領の方針の下、核兵器を保有する国がこれ以上増えることがないよう神経をとがらせた。日本は1955年に日米原子力研究協定を結ぶことで、原子力技術の開発でアメリカの管理下に置かれた。動燃は、日本政府の後ろに控えるアメリカの手のひらの範囲で原子力技術を開発していくことになる。