震災直後、俺たちは葛藤を抱えながら関東のグラウンドに立ち続けるしかなかった
2011年3月11日、宮城県沖で発生した東日本大震災。揺れの瞬間はオープン戦の試合中だった。一軍は兵庫県、二軍は埼玉県に遠征中で、東北の詳しい様子や家族の安否が確認できず、チーム内は大混乱。ニュース映像をただただ無言で見つめるしかなかった。
一刻も早く仙台に帰りたい。それが選手の総意だった。しかし、星野仙一監督からは「おまえらは野球だけしとりゃあええんじゃ!」とひと言。家族の安否を全員確認するまでは野球なんてできない。俺の家族は名古屋にいたが、もし仙台に家族がいたら、真っ先に星野監督の「帰るな」という指示に背いていたに違いない。バイクの大型免許を持っているから、バイクにまたがって1人で仙台に帰っていただろう。
実際、仙台に家族がいた2人のあるコーチは一緒に車で仙台に戻った。後に球団から大目玉を食らっていたが、仕方ないと思う。とにかく野球どころじゃなかったのだ。
星野監督への直談判後、米田純球団代表にも頼んで家族の無事を確認できたが、チームからは「少しでも早く仙台に戻ってボランティア活動をしたい」という声も上がっていた。
テレビではサッカー、バスケットボール、プロレス……いろんなスポーツ団体がボランティア活動をしているニュースを報じていた。
「何で俺たちはここにいるんだろう。こんなんじゃダメだよな」
選手間でそんな会話をした。いざ仙台に向かったとしても、「何で今さら来たんだ」と非難されても仕方ないと思った。
横浜にとどまることになったチームは震災から2日後の13日に川崎市のジャイアンツ球場を借りて練習を再開。正直、身が入っていない選手もいたと思う。翌14日には横浜と実戦形式の合同練習が行われたが、ボロ負けした。「自分たちはこのまま野球をやっていていいのだろうか」と葛藤を抱えながら、グラウンドに立ち続けるしかなかった。
プロ野球の開幕は、震災時点で2週間後に迫っていた。15日の臨時実行委員会で選手会が開幕延期を申し入れ、17日にはパ・リーグが4月12日への延期を決定。一方で、セ・リーグは当初の3月25日開幕から変更しないことを発表した。
これに対して、文部科学省が原発事故によって電力不足が深刻になっており、ナイター開催自粛を要請。セはようやく延期に応じたものの、
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