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増位山太志郎元大相撲力士

1948年11月、東京生まれ。日大一中から一高。初土俵は67年1月場所、最高位は大関。引退は81年3月場所。引退後は日本相撲協会で審判部副部長を務めた。74年「そんな夕子にほれました」、77年「そんな女のひとりごと」などがヒット。画家として二科展入選の常連。「ちゃんこ増位山」(墨田区千歳)を経営。

<3>個展に花を添えるためにりんごやみかんをデッサンしてみた

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 3枚目で出した「そんな夕子にほれました」がヒットして、もっとも厄介だったのが男社会のやっかみ、嫉妬です。当時は僕の他にも横綱の北の富士さん、関脇だった長谷川さんがレコードを出していましたが、売れていないから何も言われないわけです。

■相撲協会に歌はダメと言われて一時中断

 でも、僕はお金が儲かっているとか、やっかみがすごかった。それで歌うことができなくなっちゃった。日本相撲協会にダメだと言われて。あの時は歌番組を見るのも嫌になりました。そんな時期があってしばらくしてから再開してもいいんじゃないかという雰囲気ができて、テイチク(エンタテインメント)のディレクターが出してくれました。女房なんか「本当によかったね」と泣いていましたよ。

 僕は好きなことをやっていただけでしょ。それが協会のやっかみでやめざるを得なかった。本を書いて印税をもらっている力士もいるのに、僕がレコードで歌唱印税をもらうのが癪だったんでしょうね。了見が狭いんですよ。僕の歌を聴いて増位山はどんな相撲を取っているんだと見てくれる人が増えたのに、あれはダメ、これはダメで、力士がテレビに出るのも、CMに出るのもダメとなった。それが原因で相撲は一時期人気がなくなるんです。あの時は好きなことをダメと言われるのは、こんなにつらいのかと思い知らされました。

絵を描き始めたのは先代増位山の影響

 絵との出合いもお話ししましょう。先代増位山の父が絵が好きでね。尋常小学校の時から先生に美術学校に行けと言われていたそうです。元は庄屋だったのに戦後の農地解放でガタッと落ちぶれ、貧乏になって、魚屋をやったりしてね。美術学校なんかに行くような家じゃなかった。

 父は8人きょうだいの末っ子だったので、北新地の米屋に奉公に出ます。その時に映画館の看板なんかをアルバイトで描いていた。絵心だけはあったからね。力士になるのは、北新地で働いていて料亭に米を届けているうちに、そこの女将さんに気に入られ、力が強かったのでいろんな関係者から言われたのがきっかけです。力士になって大関までなって、辞めてからは検査役、今でいう審判委員になり、最後は参与になった。でも、参与は仕事がないんです。相撲場所にも行かなくていい。閑職です。

 そんな父を見たおふくろに「あんたも暇になったんだから、昔好きだった絵でも描いたら」と言われたわけです。「そうだな」と言うので、だれか先生がいないか探したら、僕の先輩のお兄さんが絵を描いていて、二科の中山三郎先生を紹介してもらったんです。当時二科は東郷青児先生が会長をやってらして、父は公募展ではずっと入選することができました。

 それからしばらくして父が名古屋で個展をやることになりましてね。個展に花を添えるために僕とか北の湖さんに何でもいいから描いて出せって言うので、りんごやみかんをデッサンして油絵を描いた。それが絵を描くようになったきっかけです。僕の場合、みんな親父の影響ですね。=つづく

(聞き手=峯田淳/日刊ゲンダイ

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