萩本欽一〈18〉テレビ初出演で「やっぱり向いてない」と落ち込む欽ちゃんを思い直させた一通の手紙
作家・増田俊也氏による連載、各界レジェンドの生涯を聞きながら一代記を紡ぐ口述クロニクル。待望の第2弾は、「視聴率100%男」として昭和のテレビ界を席巻したコメディアンの萩本欽一氏です。
◇ ◇ ◇
萩本「面白い話すると、僕の計算でいうと優れてるっていう人は世の中にだいたい2割ぐらいしかいなくて、あとの80%はだいたい間抜け。で、間抜けの中で自分が間抜けって気づいてるのが20%しかいないんですよね。でも私の中では、ダメなやつほどダメじゃないっていうのがあるの。たまたまあの走る時、そう言って走ったんですけど」
増田「24時間テレビのマラソン企画ですか」
萩本「はい。だから私の中では、もともとダメな私がなぜこんなにうまくいったかっていうと、運と恩返し。この2つしかない」
増田「なるほど」
萩本「だから後に『欽ドン!』や『欽どこ』でたくさんの若い素人を番組に出したのもそういうこと。ダメなやつほど実はダメじゃないんです。まあ正直言うと、僕、有名人とやると上がっちゃってできないというのもあるんだけど。で、素人とやるとね、うまくできないよね、素人だから。俺がやらなきゃいけないと思うとね、おかしいこと面白いことがバババッって出てくんの。ええ、ですから私は素人に成長させてもらったんですよね。初めて55号が有名になったのが『お昼のゴールデンショー』*っていう番組だったんですけど」
※『お昼のゴールデンショー』:1960年代後半にフジテレビ系で生放送された昼のバラエティー番組。中心出演はコント55号。当時としては異例の人気番組で、昼の時間帯にもかかわらず視聴率が猛烈に高かった。まだ「テレビの昼番組=主婦向けの静かなもの」という時代に、コント55号は“暴走する舞台テンポ”を持ち込んだ。カラーテレビ普及、高度経済成長、万博前夜で、日本社会全体が“速度”を上げていた。コント55号の芸は、その加速度と非常に相性が良かった。
増田「はいはい。初めて出た番組」
萩本「そうです。有名人がいっぱい出てて、番組の最後にワーッと並んで、みんなで客席やカメラに向かって手を振ってお別れをする。そんとき、二郎さんはね、とっさに前に出てって、真ん中でね、まだ面白いことをやってんのよ。俺はね、そういうのがダメなんですよ、恥ずかしくて。並ぶとね、一番どん尻入っちゃうんですよ。後ろの方で隠れるようにして黙ってた。二郎さんがやってくれてるからいいやと思って前出てやろうって気が全くなかったわけ。遠くの方でさよならって手振って黙ってるだけ」
増田「シャイなんですね」
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