津野田興一
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津野田興一都立立川高校教諭

1965年生まれ。東京都立大学大学院人文科学研究科史学専攻修了。現在、東京都立立川高校で世界史を教える。著書に「世界史読書案内」(岩波ジュニア新書)、「やりなおし高校世界史―考えるための入試問題8問」(ちくま新書)、「第2版 ポイントマスター世界史Bの焦点」(山川出版社)など。

「アヘン戦争」中国の弱点を見破ったイギリスの鋭い観察眼

公開日: 更新日:

 今から180年ほど前、アジアの大国である清がイギリスに敗北しました。今回は、一般にアヘン戦争と呼ばれている出来事について考えてみましょう。

■「地大物博(ちだいぶつぱく)」

 1757年以来、清朝は欧米諸国との海での交易を、広州1港に限定する制限貿易をおこなっていました。イギリスのマカートニー使節団は自由貿易を求めて来朝し、乾隆帝に謁見しました。

 この時の様子が後に想像画として描かれています。乾隆帝など清朝の高官が戯画化され、イギリスなどヨーロッパ諸国が清をどのようなイメージで捉えていたかを示していて興味深いものがあります。

 また、マカートニーが3回跪いて3回土下座する三跪九叩頭の儀礼を拒否し、片膝をつくヨーロッパ式の拝礼をおこなった(これは事実)点も、面白いです。

 ただ乾隆帝は、中国は土地が広大で物が豊かである(「地大物博」)ことを理由に、マカートニーの要求を拒絶しました。

■三角貿易

 19世紀になると、茶の輸入で巨額の赤字を計上するようになったイギリスが、インドのアヘンを清にもたらすようになります。

 イギリスは支払い手段としての銀が不足したため、貿易赤字を補填するためにインドのアヘンを清に輸出して茶と交換し、イギリスからインドへ綿製品を輸出する三角貿易を始めます。さらに、1833年に東インド会社の中国に対する貿易独占権の廃止が決まって自由化されると、カントリートレーダーと呼ばれるイギリスなどの地方商人が活躍してアヘン貿易が拡大します。

 なおこの時、産業革命の担い手であるイギリスの紡績業に、奴隷制度にもとづく綿花を輸出していたアメリカ合衆国の商人は、ロンドンあての「手形」を発行しました。その「手形」は清とアメリカとの茶貿易の支払いに利用され、それが清のインドに対するアヘン貿易の支払い手段となり、イギリスとインドとの綿織物取引にも利用された結果、最終的にロンドンに送金されたのです。これが、ロンドンのシティーが世界の金融と決済の中心となることをあと押ししました(図①)。

 結局、アヘン貿易額が大きくなると、このような手形による決済だけでは足りなくなり、今度は逆に清からイギリスへと銀が流出する事態を招いたのです。

■厳禁か弛禁か

 清からの銀の流出はアヘン患者の増大だけでなく、銀の高騰を招き、地丁銀制により税を銀納していた中国の農民たちの負担を増加させたため、社会問題となりました。

 清の朝廷では、アヘンの輸入を合法化して関税をかけることで歯止めをかける案(弛禁論)と、国内でのアヘン吸飲を厳罰で対処する案(厳禁論)が対立します。時の皇帝である道光帝は、厳禁論を唱えた林則徐を欽差大臣に任命し、アヘンの密輸がおこなわれている広州に派遣して対処させることにしました。1839年に広州に赴任した林則徐は、2万291箱、1300トンものアヘンを没収し、浜辺に穴を掘って生石灰と海水をまぜて化学処理して海に流しました。

利権優先のイギリス議会

 ところで皆さんは、イギリスがアヘン戦争に勝利した理由を何だと理解しているでしょうか?

 もちろん、蒸気船や大砲といった科学技術の差を指摘することもできますが、実は地図にその秘密が隠されています。どういうことだかお分かりになるでしょうか?

 この時イギリスでは、カントリートレーダーのひとつであるジャーディン=マセソン商会などが情報提供して作戦計画を立案します。それは、陸地を支配するのではなく、中国側の塩と米の搬送ルートを切断する、というものでした。消費都市である北京の生命線は、中国の経済の要である江南からの食料の輸送にかかっていました。実は、マカートニー使節団が来朝した際、大運河の様子をつぶさに観察し、清朝の弱点を見抜いていたのです。

 議会制民主主義の国であるイギリスでは、軍隊の派遣のための予算措置を提案し、わずか9票差で可決します。麻薬密輸の利権確保をイギリス議会は優先したのでした。

■南京条約は不平等?


 多数のインド兵を含んだイギリス軍は、長江をさかのぼり、1842年5月に鎮江を制圧します。ここは長江と大運河との交点にあたり、北京の朝廷は講和へと動きます。かくして8月29日、南京沖のイギリス旗艦コーンウォリス号上で南京条約が調印されました。

 条約では①巨額の賠償金支払い②香港島の割譲③上海や広州など5港開港④公行という特許商人の組合の廃止などが認められましたが、アヘン条項は盛り込まれなかったため、その後もアヘンの密輸は続きました。また、翌年の追加条約において、⑤領事裁判権⑥協定関税⑦片務的最恵国待遇などが取り決められます。

 これは一般に「不平等条約」と呼ばれるものですが、当時の状況に即して言うならば、中国人の海外渡航は禁止されていましたし、清朝にとって不平等という認識はありませんでした。従来通りの「恩恵」を認めた、というものだったことにも注意が必要です。

■日本への衝撃

 このようにアヘン戦争は、清朝にとって「野蛮人に少し譲歩して手なずけた」という程度の認識だったと考えられますが、実は日本にとっては大きな衝撃となりました。

 資料に見られるように、日本の幕府は、アヘン戦争開戦直後に、長崎のオランダ商館長からの「オランダ風説書」によって事態を把握し、一挙手一投足に注目していました。

 また、林則徐が外国事情を知るために集めた資料は、友人である魏源に託され、魏源はこれをもとに「海国図志」を刊行し、広く世界情勢を紹介します。これは、清よりもむしろ幕末期の日本で広く読まれ、日本人の目を世界に向けさせる大きな役割を果たしました。

 つまりその意味において、アヘン戦争と明治維新はつながっていると言えるのです。

■資料

「天保十一子(ねの)七月風説書」(1840年7月29日)
…唐国ニ而(て)エゲレス人に無理非道之(の)事共(ことども)有之候(これありそうろう)所よりエゲレス国より唐国に師(軍隊)を出し、エゲレス国は勿論カーフーデホーフ(喜望峰)及ひ印度エゲレス国之領地ニ而も、専兵を揃ヘ唐国に仇を報んが為(た)め之仕組に御座候……。

■もっと知りたいあなたへ

シリーズ中国近現代史①清朝と近代世界 19世紀
吉澤誠一郎著(岩波新書 2010年)860円(税別)  

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