元サッカーダイジェスト編集長・六川亨氏を悼む…日本代表の森保監督も涙した「サッカー愛」
サッカー好きの長兄と次兄・則夫カメラマンの影響でサッカーフリークとなった三男坊の亨さんは学生時代、読売サッカークラブ(元東京V)の下部組織に所属してプレー。則夫さんによれば、「いつの間にか好ポジションを取って抜け目なくゴールを決める」タイプのプレーヤーだったという。
都立文京高のサッカー部、法政大の学団連サッカー部の一員としてボールを蹴り続け、4年生になって「サッカー関連の仕事に就きたい」と決意したはいいが、どうすれば願いが叶うものなのか、まったくもって見当もつかない。
そこで亨さんは大胆不敵な実力行使に出た。
「愛読書の月刊サッカーマガジンを出版しているベースボールマガジン社(当時の住所は千代田区神田錦町)をアポなしで訪問し、社長室に入っていって『雇って下さい』と直談判した。さすがに丁重に断られたけどね」
■新入社員が日本代表担当に
則夫カメラマンの新宿ゴールデン街の飲み仲間のツテもあり、創刊したばかりの月刊サッカーダイジェスト(日本スポーツ企画出版社)に潜り込むことができ、当時の編集長から「日本代表を担当するように」と言われた。それにしても、新入社員が日本代表の担当とは?


















