萩本欽一〈23〉コント55号 実は4つもあったコンビ名の由来「俺は王貞治さんしか覚えてない」
「二郎さんから教えてもらった」
作家・増田俊也氏による連載、各界レジェンドの生涯を聞きながら一代記を紡ぐ口述クロニクル。待望の第2弾は、「視聴率100%男」として昭和のテレビ界を席巻したコメディアンの萩本欽一氏です。
◇ ◇ ◇
増田「もうその時はコンビ名決めてたんですか?」
萩本「コンビ名ないですよ。だってコンビでやる気ないんだもん」
増田「まだなかった」
萩本「ないない。でも1本やったらウケたんで、二郎さんが『次は?』って言うからさ。ウケたんだから、またやりゃいいんじゃないのって、ずっと続けた。そうしたら劇場が『名無しの権兵衛じゃ形になんないからコンビ名を付けといたよ』ってついてたのがコント55号」
増田「それは劇場側が付けたんですね」
萩本「はい、そうです」
増田「王貞治さんの55号が出た頃に結成されたからという伝説がありますが」
※王貞治の55号ホームラン:1964年(昭和39年)、当時まだ24歳だった王貞治が記録更新したシーズン最多本塁打。55本という数字はその後長く「不滅の大記録」とされ40年近く破られなかった。1985年にランディ・バースが54本、2001年にタフィ・ローズが55本、2002年にアレックス・カブレラが55本を打つも抜くことはできず。2003年、ウラディミール・バレンティンが60本塁打を放ち、ついに記録を更新した。
萩本「そうそう、名前付けてくれって言ってもいないのにつけられたんで、2人ともムッとしてた。そしたら、劇場の人が『今はやっぱり横文字だよな。ジェームズ・ボンドの007とかあんだろ。だからあれに倣ったのよ。55号でいいだろ』って。そしたら二郎さんが『いいですね』って。俺は不本意な顔して『あ、そうね』って言ったの」
増田「そしたら決まっちゃった」
萩本「『いいだろう55号。英語で言うとゴーゴーゴーだ。行け、行け、行けって、これはまたいい名前だな』って作った人が言ってるわけよ。二郎さんは『それもいいですね』って言ってる。俺は、『あ、そうですか』って感じ。そんな俺の顔を見てその人が『王さんの新記録が出たろ。55号ホームラン。これに乗っかって55号ってのはどうだ?』って言った。俺、それは気に入った。感激して『いいですね。ありがとうございました』って。二郎さんはたくさん名前の由来を全部ね、覚えてました。俺、覚えたのひとつだけ」
増田「それが王貞治さん」
萩本「うん、王さん。だから俺にインタビューすると『王さんの55にあやかって』しか言わないけど、二郎さんは4つぐらい由来を言ってましたね」
増田「ゴーゴーゴーとか?」
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