複雑な原因をアートで表現 痛みを描く歯科医が目指すもの
今回取材したのは長縄拓哉さん(37歳)。長縄さんの本業は歯科医。東京歯科大学卒業後、都内大学病院での勤務を経て、現在は病院、在宅医療、訪問介護の現場での口腔ケアを認定する団体を運営したり、訪問歯科の分野で臨床を続けている。その長縄さんが副業にしているのは痛みに関する「絵」だ。
大学病院時代に顔面や口腔内の難治性の「痛み」(Orofacial Pain)の研究をするためデンマークの大学に勤務していた時、環境が人の痛みに与える影響について理解が深まり、自分の好きな絵を描くことが痛みの治療の延長にあるかもしれないと思い至ったという。
「私たちが感じる痛みや感覚には種類があって、異なる受容体が関係していると考えられています。たとえば、唐辛子に含まれるカプサイシンが生じさせる痛み、ミントなどに含まれるメントールが生じさせる冷たい感覚などがあり、『TRPV1』『TRPM8』などの受容体が突き止められています。さらに、人の痛みや感覚は主観的なもので、その人の経験がおかれている環境次第で痛みの強さや感覚も変化するんです。
たとえば『騒音環境』と『静かな環境』での比較。皮膚の違う場所に『氷水』をつけている時、においやまぶしい光がある時など。デンマークでの研究から、周辺環境が変わると痛みの感じ方にも変化があることがわかってきました。これらの痛みや感覚に関する研究は本業として続けていますが、自分は絵が好きだったこともあって、その環境要因のひとつを自分の絵でつくりたいと思ったんです」(長縄さん)
長縄さんは痛みを持つ患者さんたちと長年接してきている。心理学では「転移」という用語があるが、特に心的要因での痛みは人から人にうつりやすい。共感してしまうのだ。長縄さんは自分に転移してきた痛みを外に表現するためにも、絵を描いたという。
「大学病院時代から痛みを専門に診る外来をしていました。日々患者さんが持つ複雑な痛みに向き合っていると、少なからず共感してしまったり、一向に良くならない痛みを前に自分の無力さを感じてしまったり、さらにそれが自分自身の痛みとして徐々に大きくなり、どこかに吐き出すところがないと押し潰されてしまうような感覚がありました。痛みとは何なのかを知りたい。自分の痛みをとりたい。複雑な痛みを吐き出して、その一部でも何か形に(作品に)することができたらと思っています」
「痛みとは何か」を考えるキッカケに
長縄さんの絵は「口腔顔面痛学会」のポスターにも採用される見込み。科学的な認知による説明だけでなく、絵自体が痛みを考えるキッカケになる事例と言える。気になる収入について聞いた。
「いままでの販売枚数は累計20枚くらい。商業施設や病院の待合室、ご自宅に置いてくださる方が多いです。画商を通して購入してもらっていて、単価は1号(キャンバスの大きさ)につき3万~4万円で、15号だと70万円くらい。売り上げは販売開始からの5年間で数百万円です。2020年3月には東京で初の個展を開きました。これからは原画だけでなく、シルクスクリーンやポスターなどのグッズも作ることで、気軽に作品に触れてもらう機会を増やし『痛みとは何か』を考えるキッカケが増えたらいいなと思っています」
歯科医師のような専門的な仕事を持つ人にとって、副業は主たるフィールドではやりにくいことを表現し、本業を拡張する場でもありそうだ。筆者はある症状を持つ方と話をしている時に、身体的な痛み(侵害受容性疼痛)と心因性の痛みは区別しにくいと感じたことがある。痛みを持つ当事者に共感しすぎると、いつの間にか自らの心が引っ張られている。絵などをキッカケに複雑な痛みに対して理解が深まるのは、アートの持つ特性のひとつだろう。