昭和37年創業の和菓子店(板橋・大谷口)材料費高騰も子供が小遣いで買える菓子を作り続ける矜持
日大病院の裏手辺りを何げなく歩いていたら、やや唐突に「パステル宮の下」と書いた堂々たるアーチが目に入った。
商店街といえば、大抵駅前から続くもので、有楽町線千川や小竹向原、東武東上線中板橋やときわ台の各駅から10分以上離れた、さらにいえば川越街道にも要町通りにも接しない奥まった場所になぜ、商店街ができたのか。興味を覚え、最も古いと聞く和菓子屋さんを訪ねた。
「うちは確かに初期からやってます。有楽町線のなかった頃、近くの団地に住む人たちが乗合タクシーやバスで池袋へ出るのに賑わったんですよ……当時は100軒以上、店があったのではないですか」
こうおっしゃるのは御菓子司「双月庵」2代目の石井正幸さん。昭和37年に親父さんが開き、ご自身も自然に跡取りとして育ったそうで、永福町での修業を経て、昭和61年に店を継いだ。
「和菓子職人の修業は5~10年かかるのが普通ですが、師匠が『おまえは早く親父を手伝ってやれ』と言って、私は2年半でした。もちろん4時に起きて仕込みから配達、片づけまで全部やって21時に終わるというものでしたが」とのこと。
以前「教えない。見て盗め」式の修業を受けた洋服店のご主人の話を聞いているので、その辺は師匠によるのか、あるいは多少、世代の違いもあるのかな、と思う。
大賞をとった「凱旋門」の他、お店の菓子の多くは先代の味を受け継いでおり、「うちは保存料は入れてません。これも昔の『余ったら捨てる』という考え方ですけど」と言いながら、年季を感じる胴搗きや餡練りの置かれた調理場を見せて下さる。その上で足りない部分はご自身で補っており、若い人向けに「キャラメルゆべし」なんて菓子も考案された。「うちも発信は始めましたが、インスタ映えを狙ったイチゴのどーんと入ったのと比べられますとねぇ」と頭をかかれるが、「うさちゃん」なんかは愛らしい外見の中に大ぶりの栗が入っており、なかなかの迫力だ。
「餡は大納言を使ってますし、材料費は上がってますけど、80円のみたらし団子とか豆大福は正直、上げにくいですね」と石井さん。毎月、何かしらの行事があって季節の菓子が売れる、という時代ではなくなったが、往来の激しい駅前とは異なり流れが落ち着いているので、子供たちが小遣いを手に買いにくることも多いそうだ。話を聞いた帰り道、みたらし団子とあんぱんを食べてみたが、特に餡をしっかりした皮で包んだあんぱんはパンでも菓子でもない、初めて接する味だった。石井さんは大変だろうけど、ご進物用のセットも取り揃える傍ら、これからも子供たちがいろんな和菓子を楽しみに通えるような地域のお店であってほしい。
(藤田崇義)