3代続くクリーニング店(板橋・ときわ台)“駆け込み寺”その成り立ちと足跡
以前、板橋は幸町の西村洋服店で「ウチぐらい古い店もなくなっちゃったねぇ……ときわ台のクリーニング屋があるかな」と聞いたのを思い出し、そちらへ足を運んだ。
田園調布に似た閑静な住宅街の広がる北口とは対照的に、ときわ台駅の南口は飲み屋をはじめ、さまざまな商店が連なり、雰囲気はぐっと庶民的になる。界隈の先の方を見やるとうっそうとした木々に囲まれた天祖神社があり、そのそばに目指す「常盤ランドリー」はあった。
店に入ると、若いご主人が姿を現す。こちらが昭和47年生まれの3代目店主、藤貫天生さんで、昭和12年生まれの先代は残念ながら一昨年に亡くなっていた。「父が生きていれば昔のことも聞けたのでしょうが……」とおっしゃる藤貫さんから、お店の成り立ちなぞを伺う。
初代のご祖父は大正12年の生まれ。故郷の結城(茨城)の仲間たちと上京し、「世間も洋装化してきたし洗濯物も増えるだろう」と踏んで板橋区でクリーニング屋を開いたのは昭和25年ごろ。実際、道路も舗装されておらずホコリっぽかったためワイシャツの需要は旺盛で店にいた職人たちも手分けして集配に出向いた。その仕上げが気に入られ、当時からのお得意さんも多いとのこと。
ちなみにこの業界は時期により屋号に傾向があって、「舎」がつくのが最も古いグループ。次いで戦後、洗濯物を水洗いする工場への取り次ぎを担う「ランドリー」が増え、「クリーニング」は新しい部類に入る。それらを合わせると全国でコンビニより多い10万店舗以上に達するものの、東京のクリーニング学校も募集を停止するなど後継者不足は共通の悩みのようだ。
奥の作業場も拝見する。新しい洗濯機の傍らで、「これなんかは古いですよ」とプレス機を見せてくださるが、その手前に置かれた夜の作業には欠かせないラジオはもっと古そうだ。関西なら「ヤンタン」あたりが定番なのだろうけど、先代は何を聴きながらアイロンをかけていたのだろう。
やがて藤貫さんが、平成13年にクリーニング師の免許を取った頃から外国人が増え、「ウオッシュ! ウオッシュ!」と叫んで飛び込んでくるお客と協会作成のカードを持ち出しやりとりする場面もあったが、コロナ以降はそれもなくなり、テレワークの影響か売り上げも7割ほどに減った。
とはいえ、比較的すいているはずの午前中に伺ったのに、お客が現れては何度も話を中断し店へ立たれる。
頂戴したパンフレットには「長年この場所で営業し、街に馴染みすぎていてみなさんが気づかないことが多いので……」とあったが、「寒い時季の部屋干しのコツですか……間隔を詰めすぎず、風が通るようにしてください」といった助言ももらえるし、近所の人にはあって当たり前の大切な存在なのだろう。これからも門前の風景に溶け込んだお店であり続けてほしい。
(藤田崇義)