西アフリカ国境線の不思議…ギニア湾諸国が“細長い”秘密は「蚊」
地図①をご覧ください。アフリカ大陸西部のギニア湾に面した国々が並んでいます。なんだか不思議な形をしていないでしょうか? 海岸線から内陸部にかけて、国の形が細長くなっていることに気付いたかと思います。これは一体、なぜでしょうか?
■3つの海岸
ギニア湾地域にヨーロッパ人が来航するようになったのは、いわゆる大航海時代(15~17世紀)以降のことです。
海岸地域に「舶来品」が流入し、布、金物、ビーズ、金属、酒類、銃などがもたらされました。ヨーロッパ人は取引品目に応じて、この地域を「黄金海岸(ゴールドコースト)」「象牙海岸(コートジヴォワール)」「奴隷海岸」などと名付けました。そして、沿岸部に交易拠点となる城砦を建設したのです。
黒人奴隷貿易のピークはいつ頃?
■黒人奴隷貿易
やがてゴールドコースト地域にアサンテ王国(1670~1902年)が台頭します。この王国は、ヨーロッパ諸国から入手した銃によって他の民族を征服し、奴隷をヨーロッパ人に売りさばいていました。
そこで、皆さんに質問です。黒人奴隷貿易のピークはいつ頃だと思いますか? 4択問題です。ア~エの中から1つ選んでください。
ア:中世ど真ん中の12世紀
イ:大航海時代開始直後の16世紀前半
ウ:13植民地が形成され始めた17世紀前半
エ:近代が始まった18世紀後半
大航海時代以前のアは除外して、イ~エのどれかになりそうです。答えはグラフ②をご覧ください。
実は大航海時代よりもずっと現代に近い18世紀から19世紀前半にかけて盛んに行われていたのです。この間、アフリカ西部の地域では、生産年齢に当たる人口が常に減少し続け、アフリカ経済のヨーロッパへの従属化が進展しました。それ故、ヨーロッパ諸国に対するアフリカの抵抗運動は弱体化せざるを得ませんでした。
「奇跡」の木の発見
■感染症克服がカギ
地図③は、19世紀後半にヨーロッパ諸国が、アフリカ大陸において獲得した植民地を示しています。よく見ると、沿岸部にはヨーロッパ人が入植している一方、内陸部にはほとんど入っていないようです。一体どういうことでしょう?
いくつか考えられる理由のひとつがのハマダラ蚊です。熱帯性感染症であるマラリアを媒介する蚊がいたため、ヨーロッパの人々はアフリカに入ってゆくことができなかったのです。
表④を見ると、19世紀前半に西アフリカのシェラレオネにおいて、イギリス人の死亡率が突出しているのが分かります。つまり、ヨーロッパ人の内陸部への侵出を阻んでいたのは、マラリアなどの感染症だったのです。
しかし、「奇跡」をもたらす木が発見されます。南米のアンデス山脈に自生する、キナと呼ばれる木でした。その樹皮にマラリア治癒の成分が含まれていたのです。19世紀後半になると、マラリアの特効薬であるキニーネが抽出されるようになり、アフリカ内陸部にヨーロッパ人が侵入できる可能性が出てきました。
アフリカが「無主の地」であることに合意
■ベルリン会議
アフリカ内陸部への侵出をもくろむヨーロッパ諸国の中で、領土的野心にあふれ、帝国主義思想を持ったベルギーの国王レオポルド2世は、各国が手を付けていなかったコンゴ川流域を侵略します。その結果、ヨーロッパ列強との利害調整が必要となりました。
そこで、ドイツのビスマルクが主宰して開かれたのがベルリン会議(1884~85年)です。
ベルリン会議において列強各国は、アフリカが「無主の地」であることに合意し、他国に事前通告して実効支配してよいという考えを確認。また、沿岸部を支配すれば自動的に後背地に対する権利が生じるという原則でも一致しました。
この結果、以後アフリカの植民地化が急速に進展し、列強の支配地域は沿岸部の拠点から、内陸に向けて細長く伸びてゆきました。
■地域統合を分断
ここで地図①に戻りましょう。現在ギニア湾に面した国々があのような形をしているのは、貿易拠点として沿岸部を押さえたヨーロッパ諸国が、それぞれ内陸部に植民地を広げた結果だったのです。しかし、それは現地の民族分布や歴史的なつながりを無視した境界線にならざるを得なかったため、現在に至るまで多くの問題を残すことになりました。
その一例が鉄道です。
植民地支配と物資運搬のため、沿岸から内陸に向かって延びる路線が建設されたものの、植民地を横断する「横の路線」は支配国が異なったため敷かれませんでした。それ故、20世紀後半においてアフリカ諸国が独立を達成してゆく際、地域を統合するような国家形成が実現できなかったのです。ギニア湾沿岸に細長い小国が生み出された歴史的な背景には、こうした歴史がありました。
野口英世は志半ばで黄熱病に
■野口英世
20世紀初頭、野口英世(写真⑤)はアメリカのロックフェラー医学研究所のメンバーとして熱帯における感染症に関する研究を行っていました。中でも、黄熱病の病原体を特定してワクチンを開発した実績によってノーベル賞候補にまでなりました。
しかし、この研究成果は後に、他の研究者によって否定されます。野心にあふれる野口は、再起をかけてイギリス領ゴールドコーストに赴き、研究を続けました。
野口は自分で開発したワクチンを注射していたものの、黄熱病にかかってしまい、1928年にゴールドコーストのアクラで亡くなりました。医学研究の進展と帝国主義支配が背中合わせの時代だったのです。
■もっと知りたいあなたへ
「エリアスタディーズ92 ガーナを知るための47章」
高根務、山田肖子編著(明石書店 2011年) 2200円
◆本連載 待望の書籍化!
「『なぜ!?』からはじめる世界史」(山川出版社 1980円)