仏の高速増殖実験炉に核燃料を納めるプロジェクトに失敗
プルトニウム製造係長 竹村達也さん
旧動燃は、竹村達也らアメリカ留学組の尽力でプルトニウム燃料の開発に成功した。
動燃が発行した「プルトニウム燃料開発十年の記録」には、竹村と同じアメリカの国立アルゴンヌ研究所に留学した科学者が「想い出」を寄稿している。放射性物質を密閉するための容器「グローブボックス」を、アメリカからの輸入ではなく国産化する際の苦労話を紹介。日本のメーカーのものを試しに使っては注文をつけるということを数年繰り返したと振り返り、こうつづっている。
「プル燃(プルトニウム燃料部)が現在あるのも、動燃職員だけではなく、実に沢山の人々の協力が土台になっていたのだと今更のように感じます」
この他にも21人の動燃職員が記念誌の「想い出」コーナーに手記を寄せた。「桃栗3年柿8年」「プルトニウムのスパルタ教育」などとそれぞれがタイトルをつけて、プルトニウム燃料開発への思いを書いている。
しかし、竹村は手記を寄せることなく退職し失踪した。何があったのか。
1969年、竹村が34歳の時だ。この年、動燃はフランスの高速増殖実験炉「ラプソディ」に核燃料を納めるプロジェクトを始める。