津山30人殺しの集落に暮らす親族の女性「ずーっと級長をやって優秀だって聞いておるよ」

1938年5月21日未明に発生した津山30人殺し。すでに90年近い年月が経っているが、いまだに、人々に強い印象を残している。横溝正史の「八つ墓村」のモチーフになった事件である。
事件が起きたのは、岡山県の津山市の山村だったが、犯人の都井睦雄の出身地は中国山地の山深い、岡山県の倉見という土地である。そこに都井の墓があるというので、私は現地を訪ねた。今から15年前のことだった。
都井の生家の裏にあった墓は、近くを流れる倉見川から拾ってきたと思われる漬物石のような石だった。名も戒名も記されていない。誰が手向けたのか花が捧げられていた。
それが墓だと教えてくれたのは、集落に暮らす親族の女性だった。
「私ゃあ、嫁いできたから、睦ちゃんとは会ったことはのうて、話を聞いただけじゃけど、尋常小学校のときには、ずーっと級長をやって、優秀だったって聞いておるよ。ここには小学校5年までおったんじゃ」
女性は、都井のことを親しげに睦ちゃんと呼んだ。都井は、2歳のときに父親、3歳のときに母親を相次いで亡くす。両親の死因は、当時不治の病であった結核だった。後に結核は都井自身をむしばむことになる。
都井家は、ここ倉見で代々続く名家だった。江戸時代には庄屋を務めるなど、経済的にも豊かであった。しかし、両親を失い、肉親は姉だけになってしまった都井は、祖母に引き取られることになった。
その理由は、町の学校でしっかりとした教育を受けさせたいという祖母の意向ともいわれているが、本家筋であった睦雄の父親が亡くなり、家は父親の弟が継いだことから、厄介払いされたのではないか。
「そこまでは、私ゃあ知らんなぁ。睦ちゃんが出ていったのは、私が来る前のことだけぇ」
睦雄が出ていった理由に関しては、嫁ぐ前のことなので何も聞かされていないという。
倉見を出た睦雄は、事件を起こした貝尾へと移り、姉と祖母の3人で暮らした。祖母は睦雄のことを溺愛し、雨の日には学校を休ませるなど、目をかけて育てた。
小学校を成績優秀で卒業し、学校の先生も睦雄も、津山市中心部にある中学校に通うことを望んだが、祖母はそれを拒んだ。可愛い孫を常に自分の目の届くところに置いておきたかったのだ。
親の遺産を相続し、経済的にも恵まれていた睦雄は、青年になると、戦前まで全国の農村で普通に見られた夜這いに精を出すようになった。
睦雄は色白であり、また親の遺産を相続し、金にも困っていなかったことから、村の女たちにはたいそうもてたという。何人もの女たちと関係を持ち、毎日のように夫がいる女性のもとへ通い詰めた。夫が激怒し、村の人間が仲裁に入って間を取り持つこともあった。
睦雄の人生に暗い影が差しはじめるのは、事件の前年、徴兵検査で丙種合格とされたことがきっかけだった。
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