プロ1年目ドジャース野球留学の内幕…現地生活を大いに満喫した一方、試合には全く出られなかった
外食をするためには車は欠かせない。そこで荒川と三千丈さんでレンタカーを借りた。車種はキャデラック。三千丈さんが運転することが多かったが、休みの日は俺が運転することも。左ハンドルも車線が日本とは逆なのも、そこまで抵抗感はなく、すぐに慣れた。
18歳の坊主が米国でキャデラックを乗り回し、3人でフロリダのディズニーワールドに行ったこともあった。しかも、たまたま愛工大名電野球部の同期がちょうどフロリダへゴルフ留学をしていて、休日はよく遊んでいた。練習は14時ごろに終わるけど、その後の予定がいっぱいだったおかげで、全然寂しくなかった。
とはいえ、肝心の試合ではベンチを温める日々。捕手としてプロ入りしたにもかかわらず、米国のルーキーリーグでは三塁手に“転向”させられたからだろう。当時、中日は俺がルーキーリーグの試合に出場するための「枠」を買っていた。それなのに、ヘタクソすぎてほとんど試合に出してもらえなかった。
そんな状況で半年が過ぎようとしていた87年8月。あまりにも不甲斐ない俺を見かねた球団は、ドミニカ共和国への「島流し」を命じたのだ。