38度線突破の北朝鮮兵士を描く「脱走」。襲ってくる困難の衝撃
北朝鮮兵士・呉青成(オ・チョンソン)の亡命事件を思い出す
本作を見て「やっぱりね」と思ったのがヒョンサンら軍幹部の華やかさだ。パーティーの場面ではクラシック音楽が流れる大広間で盛装して社交ダンスに興じる。実に優雅だ。
北朝鮮では人民が飢餓で苦しんでいると伝えられるが、「先軍政治」の体制では一部の軍人は上級国民。彼らの上には最高司令官の独裁者・金正恩が君臨している。
ギュナムの脱走にオロオロする中年の最高幹部たちは責任を取らされることを恐れている。かの国では一度のミスが死刑に直結しているからだ。まさに王朝国家の恐怖。そういえば戦前の天皇制国家日本も君主をいただく王朝国家で、軍人が暴虐のかぎりを尽くしていた。戦前の日本は北朝鮮、現在の日本は韓国ということになるだろうか。
本作を見て思い出したのが2017年11月に起きた北朝鮮兵士・呉青成(オ・チョンソン)の亡命事件だ。彼は5発もの銃弾を浴びながら38度線を越えて脱北に成功、命を取り留めた。体内から大型の寄生虫が見つかったことで北朝鮮の衛生管理の劣悪さが話題になったが、もう一つ注目したいのが、彼が軍用ジープで境界線を越えようとしたことだ。
この事件の際、筆者は北朝鮮研究の専門家の大学教授に取材した。彼はこう教えてくれた。
「兵士が北朝鮮の兵器を手土産に亡命すると韓国政府に歓迎される。 韓国は北の戦略情報を求めているからだ。もし戦車に乗って亡命に成功したら、大変な額の報奨金がもらえたはず。可能性は低いが、軍用機に乗って亡命したら一生遊んで暮らせるくらいの報奨金を得られたかもしれない」
残念ながら呉青成が乗ったジープはぬかるみにはまって立ち往生。彼はジープを前に進めようとしたため時間をロスし、銃弾を浴びてしまった。あの負傷の背景には、軍事情報の手土産という裏事情があったのである。
本作を見ながら、北朝鮮という独裁国家がいつまで続くのかを考えてしまった。金正恩から娘に引き継がれ、人々のまやかしの熱狂とともに、金一族は永遠の命を与えられるのかもしれない。(配給:ツイン)
(文=森田健司)