世界最古の遊牧帝国をつくったスキタイ人 黄金の胸飾りから見える東西の文化融合
高校の世界史教員をしていると「世界初の〇〇」や「世界で唯一の△△」などの枕ことばが付くものをチェックするというクセがついてしまいます。今回は「世界最古の遊牧帝国」のお話です。一体どのような人々だったのでしょうか?
■ウクライナ
現在、ロシアの侵略を受けて戦闘が続いているウクライナの地は、ユーラシア大陸を東西に貫く草原地帯の西部にあたる場所です。
図①のように地球の大気大循環という観点から見ると、赤道で暖められた空気は上昇気流となって赤道近辺に大量の雨を降らせ、水分を失った空気は北緯30度付近で地表に下りてきて亜熱帯高圧帯を形成します。これがユーラシアの砂漠を生み、その北に大草原とステップ気候が広がりました。
したがって、東西に長い大陸であるユーラシアにおいて、地図②に見られるように、東から順にモンゴル高原→カザフ草原→ウクライナ草原という3つの大きな草原地帯が展開しているのです。黒海の北方にあたるウクライナ草原に、最古の遊牧国家をつくったのがスキタイ人でした。
■ヘロドトス
では、スキタイとはどのような人々だったのでしょうか? 残念なことに彼らの文明は文字を使用しなかったので、歴史を書き残していません。出土する遺物が重要な手掛かりです。
ただ、ありがたいことに隣接するギリシアには「歴史の父」と呼ばれる筆まめなヘロドトスがいました。彼が残した記録にはスキタイ人の特徴として、(1)街も城壁も築かない(2)家を運んで一人残らず移動する(3)騎馬の弓使い(4)農業を生業としない(5)牧畜をおこなう──という遊牧民の生活が描写されています。
さらにヘロドトスは、(6)敵が攻めてきた場合には逃れつつ撤収し、敵が退けば追跡して攻める、というスキタイ人の臨機応変な戦い方を紹介しています。敵が強ければ逃走することもいとわず、逆に敵が退却した場合には攻撃するという、合理的な考えを持っていた様子がうかがえます。
■学説の変化
スキタイは前8~前1世紀にかけて、騎馬戦術をベースとした遊牧国家を形成。その最盛期は前6~前4世紀でした。独特の動物意匠を取り入れた美術工芸を発展させ、中央アジアやモンゴリアの遊牧諸民族に影響を与えたとされてきました。ただし、近年の考古学の発掘調査の結果、新しい説が唱えられています。
ユーラシアの草原地帯の東西では、ほぼ同時期に共通の形態を持つ馬具や武器が出土しています。遊牧世界は流動性が高いため、草原地帯において相互に影響しあったのでしょう。
文化も東方からの影響を受けています。写真③のように、草食獣の脚を前後から折りたたんだり、鹿の角を誇張したりする表現などが特徴的な動物文様は「スキタイの独自性」と考えられてきましたが、実はユーラシア東部のトゥバなどで生まれ、その後、スキタイに伝播したと考えられるようになっています。
つまり、文化的な側面においては、中国北西のアルタイ山脈地域や南シベリアのトゥバなどで生まれたものが東方から西方へと伝わったと考えられるのです。従来は「西から東へ文化が伝わった」という観点で見ていた考古学者たちの考えが、近年は変化してきたようです。
■動物闘争文様
では、スキタイ人の生活を知ることのできる至宝を紹介しましょう。黒海北岸のギリシア人職人が、スキタイの王侯の注文を受けて作らせたものと推定されている胸飾り(写真④)で、1971年に黒海北岸で発掘されたトヴスタ=モヒーラ古墳から出土したものです。
古墳の主は盗掘されていましたが、その妻の墓は少し離れていたため奇跡的に手つかずのまま見つかりました。近世以後、ウクライナに侵攻したロシア人が手当たり次第に盗掘をおこなったため、このような墓は極めて珍しいのです。
この黄金の胸飾りは3段に分かれて文様が描かれています。まず外側をご覧ください。翼の生えた動物が馬を襲っています。襲っているのは、ギリシア神話に登場するグリフィンという空想上の動物で、ライオンとヒョウがイノシシや鹿を追いかけている様子も描かれています。さらに犬がウサギを追い、その先にはバッタまで描きこまれ、遊び心がうかがえます。
胸飾りのデザインにはギリシア文化の影響や、「動物闘争文様」というスキタイで生まれた構図が採用されました。高度な金細工の工芸技術に、動物たちがうねるように闘う造形の妙を感じます。スキタイ美術とは、ギリシア文化と中国北方の美術が融合したものであることが分かるでしょう。
首元に一番近い上段には、羊の毛皮を引っ張る2人の男性を中心にして、左右に搾乳の様子が描かれています。子羊に先に母親の乳首を含ませ、すぐに子どもを引き離して搾乳しているのが見て取れますが、現代の遊牧民も同じ方法を用いているようです。
■尚武の民
資料⑤は、ヘロドトスの「歴史」に記述されているスキタイの特徴です。戦場で功績を上げた者だけが酒を飲む栄誉にあずかりました。大変分かりやすい実力主義の尚武の民だったのですね。
このようなスキタイを倒したのも、やはり東方からの「風」でした。カザフ草原から侵攻したサルマタイと呼ばれる騎馬遊牧民の攻勢を受けて、スキタイは歴史の闇に消えてゆきます。しかしスキタイが発展させた美術や文化、そして馬具や武器などの技術は、ユーラシアの遊牧世界に大きな影響を及ぼしたのでした。
■資料5
年に一度各区の長官はその管轄区で、水を割った酒の甕(かめ)を用意し、スキュタイ人のうち戦場で敵を討ちとった手柄のある者だけがこの酒を飲む。そのような武功のない者はこの酒を飲むことが許されず、恥辱を忍んで離れた席に座っている。スキュタイ人にはこれが最大の汚辱なのである。また特に多数の敵を討ちとった者は、一度に二杯の杯を受け、これを一気に飲み干すのである。(村川堅太郎責任編集「世界の名著5 ヘロドトス/トゥキュディデス」中央公論社、1970年から)
■もっと知りたいあなたへ
「興亡の世界史 スキタイと匈奴 遊牧の文明」
林俊雄著(講談社学術文庫 2017年) 1408円
◆本連載 待望の書籍化!
「『なぜ!?』からはじめる世界史」(山川出版社 1980円)