早大と日本代表の掛け持ちが着実に「血・肉・骨」になっていった
早大では3年の時に14得点、4年の時に13得点を決めて在学中、4年連続得点王のタイトルを獲得することができた。
最終学年(66年)の12月、タイのバンコクで行われたアジア大会も思い出深いものがある。
猛暑続きで夜はロクに眠れず、日程もいい加減だった。10日間で7試合という超ハードスケジュール。しかも最後は4日連続で試合をこなした。何とか銅メダルを獲得して帰国したが、どんな劣悪な環境でも試合をこなしていく自信はついたかな。そうそう日当が出たのも大きかった。
タイ政府から日当が支給され、それが3万円か4万円くらいになった。試合と練習ばかりでどこに行くわけでもなく、日当がそのまま手元に残った。あの頃は早大近くの安アパートに住み、仕送りが月に1万5000円ほどだった。うれしかったな。
早大を卒業する日が近づいた67年の1月15日には、在学中2度目となる天皇杯サッカーを制することができた。三菱重工と八幡製鉄を倒し、決勝は日本サッカーリーグ2連覇中の東洋工業が相手だった。「社会人王者とやっても勝ち目はない」と早大生に見限られ、国立競技場の近くの秩父宮ラグビー場で同日に開催された日本ラグビー選手権の決勝(近鉄-早大戦)に応援が偏ってしまった。