早大と日本代表の掛け持ちが着実に「血・肉・骨」になっていった
最年少の20歳で出場した東京五輪は、出場できたことに満足したわけでもないし、諸先輩に遠慮したわけでもない。振り返るに「自らゴールの道筋を切り開く」という気概に欠けていたと思う。
試合中は、パスの供給元であるMF八重樫茂生さん(当時31歳=古河電工)やFW宮本輝紀さん(同23歳=八幡製鉄)から「ガマ!走れ!」と怒鳴られながらウロチョロするのが関の山。ストライカーとしては失格だった。日本サッカーのベルリン五輪以来28年ぶりのベスト8の喜びに浸りつつ、己の不甲斐なさに恥じ入るばかりやった。
東京五輪で得点王になったハンガリー代表FWベネは、私と同じ1944年の生まれだった。
誰に宣言したわけではないが、4年後のメキシコ五輪では「ベネを超える選手になってみせる!」と誓いを立てた。
早稲田大と日本代表の掛け持ちはしんどかったが、日々の鍛錬が着実に血に、肉に、骨になっていったのが分かった。
■早大で4年連続得点王