「闘志が萎えちゃったんだ」中日移籍1年目、大島康徳に三塁の定位置を譲った理由
前身となる阪急軍から数え、今年で球団創設90周年を迎えた阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)。当時のパを代表する名手を幾人も輩出する中、ひときわ異彩を放っていたのが森本潔だ。球界から突如消えた反骨の打者の足跡と今を、ノンフィクションライターの中村素至氏が追った。(毎週木曜掲載)
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1976年オフ、阪急と中日の間で成立した大型トレード。森本は日本シリーズ最終戦の決勝ホームランを置き土産に阪急を去るが、新天地への希望に満ちていた。一方、このときに中日から阪急に移籍したある選手のエピソードを当時、中日の主力だったあるOBが語る。
「その年の納会で、ある球団幹部が『今夜は無礼講や』と言ったところ、その選手が球団幹部に実際に無礼な振る舞いをしてしまった。それでトレードになった」
「無礼講 一夜明ければ 無礼者」という川柳を地で行ってしまったのである。「記者会見で沈痛な表情をしていた」のは、もしかしたらこの選手だったのかもしれない。
翌77年の開幕戦は後楽園球場の対巨人戦。森本は6番・三塁で先発出場した。森本はこの時点で35歳だった。巨人の2番・二塁は立大同期でライバルだった土井正三。土井はこの年を最後に引退することになる。もう一人のライバル・山口富士雄は、73年シーズン途中に阪急から大洋に移籍し、同年限りで引退していた。


















