「ともぐい」河﨑秋子氏

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「ともぐい」河﨑秋子氏

 明治後期の北海道東部。犬を相棒に人里離れた山でひとり暮らす猟師・熊爪が、鹿を取るシーンから物語は始まる。獲物を仕留めた熊爪は、鹿を背負って小屋に戻る道すがら、春には冬眠明けの熊を撃ち解体して食うことを脳内で想起する──。

「14年前に書いた熊と人の話が原型です。出版が現実の熊出没が増えた時期と重なったのは偶然ですが、北海道には昔からヒグマがいて、文献を調べれば開拓農家が襲われた話や、対峙する猟師の話が出てきます。人間を簡単に傷つけることができる熊について、私なりに形にしてみたいという思いがありました」

 マイナス30度の冷気が漂う夜明け時、息を整え照準を定めて狩りをする熊爪は、体温の残る仕留めた鹿の腹を裂き、内臓を雪の上に広げ、そこから健康そうな肝臓を取り出して音を立ててかぶりつく。雪の上に散った血液、解体した内臓からわきあがるにおいや蒸気など、五感を総動員させる描写に、序盤から物語の世界に引き込まれるはずだ。

「以前羊飼いをしていたときに実際に生き物をしめてさばいて食べる経験をしていましたし、兄が害獣駆除のために鉄砲を持っていた時期には仕留めた動物をさばいていましたから、それが反映されたのかもしれません。生き物を食べるという意味では、アサリを砂出しして味噌汁にするのと、自分で狩猟した獲物の皮を剥いで肉を食べるのとは、遠いものではないのですが、一般的にはそうではない。これは経験によって形成された感覚のバグのようなものですが、このバグが生じるところに人間の面白さを感じます」

 熊爪に変化をもたらすのは、ある日、山中で出会った瀕死の猟師と、その彼が追ってきた穴持たずと呼ばれる冬眠しそこなった熊、さらに獲物を買い取ってくれる店で会った盲目の少女だ。ひとりで完結していた日常に、他者や社会の変化が押し寄せ、これまでの熊爪の生き方が揺らぎ始める。

「娯楽小説としては、熊のボスと勇敢に闘い命を落として満足だと物語を閉める方が美しかったかもしれない。けれど、果たしてそうかなと。山で生きるための大抵のことができる人間でも、鉄砲には銃弾も必要で、里の食べ物や酒やたばこはうまい。そうすると、社会とつながらざるを得ないし、拒絶もできないというのが主人公のジレンマです。熊との闘いだけで終わらせなかったことで、人間の愚かさや広がりが書けたように思います」

 本書は、猟師として生を全うすることもできず、人の生活にも同化しきれない男の葛藤を描いた新タイプの熊文学だ。

 時代も、場所も、主人公の行動形式も、到底立ち入れない場面に、著者は有無を言わさず読み手を連れていく。

「小説では物語の中に熊はいますが、実際の熊は生身のものとして存在し、一歩間違えば私たちのすぐ隣にいる。決して人間が気合で倒せるような存在ではありません。熊もそれ以外の動物も、私たちと地続きにいることを、本書を通して感じてもらえれば」

 なお本作は、「絞め殺しの樹」に続く、著者2度目の直木賞候補となった。今一番の骨太の注目作だ。

(新潮社 1925円)

▽河﨑秋子(かわさき・あきこ) 1979年北海道別海町生まれ。「東陬遺事」で第46回北海道新聞文学賞、「颶風の王」で三浦綾子文学賞とJRA賞馬事文化賞、「肉弾」で第21回大藪春彦賞、「土に贖う」で第39回新田次郎文学賞を受賞。

【連載】著者インタビュー

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