作詞家・売野雅勇さん 「少女A」と「涙のリクエスト」はデビュー曲とのギャップから生まれたヒット曲
作曲家・筒美京平は曲づくりの理念を教えてくれた
「少女A」がヒットしたけど、当時は作詞家が注目されることはほとんどない時代。そんな中でも僕のことを気にかけてくれたのが山口百恵さんのプロデュースで有名な酒井政利さんです。最初に沖田浩之のアルバムを1枚頼まれました。そして酒井さんが「筒美京平先生が一緒に仕事をしたい」と言っているというので、紹介してくれた。
最初は野口五郎の「過ぎ去れば夢は優しい」を書きました。これはヒットはしなかったけど、京平先生が僕を気に入ってくれて、次は田原俊彦。でも、これはディレクターの判断でボツに。でも、京平先生はそんなことを気にせず指名してくれて、河合奈保子の「エスカレーション」(83年)、稲垣潤一の「夏のクラクション」(同)とヒットが続きました。
京平先生には会ったその日に言われたことがあります。僕らの仕事は自分が資本だということ。見たこと、聞いたこと、体験したことが全部音楽になる。何を見るか、着るか、食べるか。本、映画、芝居、旅行、車……。それらすべてが血となり肉となり、いつかペン先から、メロディーや歌詞となって戻ってくると教えられた。京平先生は曲を書くのが天職だし、ヒット曲を書くのが自分の役割と思っている人でした。
一流のレストランにもよく連れて行ってもらいました。こんなこともあった。事務所に来てというから、そこで待ち合わせしてごはんを食べに行くのかと思ったら、まず行ったのが有名なブティック。そこに連れて行かれて、「こういうのがいいよ」と。きちんとしたものを着なさいというわけです。もっともそこはトラッド系の店で、当時、トラッドがあまり好きじゃなかったので困った記憶があります(笑)。
写真は80年代に河合奈保子のビデオ撮影で京平先生(右)とオーストラリアとニュージーランドに一緒に行った時のツーショットです。