津野田興一
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津野田興一都立日比谷高校教諭

1965年生まれ。東京都立大学大学院人文科学研究科史学専攻修了。現在、東京都立日比谷高校で世界史を教える。著書に「世界史読書案内」(岩波ジュニア新書)、「やりなおし高校世界史―考えるための入試問題8問」(ちくま新書)、「第2版 ポイントマスター世界史Bの焦点」(山川出版社)など。

日清戦争とは日朝・日清・日台“3つの戦い”だった

公開日: 更新日:

 今回は4択問題から始めましょう。次の地図をご覧ください。これは日本の戦争を示すものですが、それは次のどの戦争でしょうか?

①豊臣秀吉の朝鮮出兵
②日清戦争
③日露戦争
④日中戦争

■特徴

 正解は②です。

 近代日本最初の戦争は日清戦争でした。でも、ちょっと待ってください。もう一度、地図をよく見てほしいのです。日清戦争と言いますが、戦場となったのは日本でしょうか? 清でしょうか? そして、それだけでしょうか?

 まず、日本は戦場にはなりませんでした。そのため、どこか遠い世界での戦争、他人事の戦争であったかのように受け止められた部分があったように思われます。

 次に日本軍が朝鮮半島で軍事行動を起こしていることから分かる通り、独立国である朝鮮も舞台となりました。また台湾においても1年間にも及ぶ戦争がありました。これは一般に知られていない部分です。

 結論を先に言うと日清戦争とは、①日朝戦争②日清戦争③台湾征服戦争という3つの戦争の複合であったとされるのです。

■日朝戦争

 写真①はフランス人画家のビゴーが描いた有名な風刺画です。

 朝鮮という魚を日本と清のどちらが釣り上げるかを競っており、それをロシアが狙っている、というものです。当時の朝鮮は清に朝貢を行う国ではありましたが、「自主」の国であり、諸外国とも条約を結んでいた独立国家でした。

 朝鮮で甲午農民戦争(1894)という反乱が起こると、朝鮮政府は宗主国である清に援軍を要請します。朝鮮に対する清の影響力拡大を恐れる日本の外務大臣・陸奥宗光は日本軍の出兵を進め、その際、資料のような訓令を出します。欧米の非難が集まらないよう、責任を負わないように、どのような手段を使ってもいいから開戦の口実をつくれ、と命じたのです。

 日本軍の撤兵を求める朝鮮政府に対し、日本は1894(明治27)年7月23日、都である漢城の電信線を切断して情報を断ち、朝鮮の王宮を包囲攻撃して国王を捕虜にします。そのうえで、国王の父である大院君に政権を譲らせ、清と戦うために日本軍の出兵を要請させました(写真②)。

 わずか数時間でしたが日本軍が朝鮮の王宮守備軍と交戦したことは明らかです。

 ですから、日清戦争は94年7月23日に始まったと考えるべきでしょう。

■〈資料〉

 今日ノ形勢ニテハ行掛上(いきがかりじょう)開戦ハ避くベカラズ、依テ曲ヲ我ニ負ハザル限リハ如何ナル手段ニテモ執リ開戦ノ口実ヲ作ルベシ (原田敬一著「日清戦争」から)

■豊島沖海戦

 朝鮮に対する戦争と同時並行で、連合艦隊を編成していた日本の海軍は、7月25日に朝鮮の豊島沖で清の輸送船団を攻撃しています(写真③)。これが狭義の日清戦争の始まりです。

 7月29日には朝鮮の成歓で日本軍が清軍に対して陸上で勝利します。輸送船団を襲撃していたことが有利に働きました。なお、この戦いで戦死したラッパ卒(ラッパを吹く任務の兵)を新聞各紙が取り上げて軍国美談とし、のちに文部省作の小学校国定教科書に大々的に取り上げられ、戦争と天皇賛美に利用されたのは有名な話です。教科書には「木口小平」なる架空の人物の名前で、「死んでもラッパを口から離しませんでした」と記されていました。

 8月1日には日清両国が宣戦布告し、朝鮮と中国の遼東半島、そして山東半島において戦闘となります。9月17日の黄海海戦では、一般に清国艦隊の練度が低かったといわれますが、実際には互角の戦いでした。

 ただし、日本の軍艦は構造材が木製で被弾しても貫通するだけだったのに対し、清の軍艦は装甲艦が多く、被弾すると甲板上の火災を引き起こし、兵士が多数死傷したことが被害を拡大したということを指摘しておきましょう。

 制海権を得た日本軍は鴨緑江を突破して清国領内に侵入し、11月には旅順・大連を占領します。この時、旅順市街で中国人に対する虐殺事件を起こしてしまい、欧米各国から非難が寄せられます。

 冬の寒さが迫るなか、日清両国ともに兵士や物資の補給に苦しみました。この頃、清からの講和の申し入れを拒絶した日本は、95年2月に清の北洋艦隊の拠点である山東半島の威海衛を攻略します。

■台湾征服戦争

 日本は戦争の当初から台湾の割譲を想定していました。95年3月23日には台湾の西北にある澎湖諸島を攻撃します。この時、日本軍を苦しめたのは清軍よりもコレラの猛威で、戦闘が終わった後も犠牲者が絶えませんでした。

 この間、下関で講和条約の交渉が行われ、3月30日に休戦合意に至るのですが、日本は台湾と澎湖諸島を除外します。両者の割譲を認めるまでは全面的な休戦はしないとの意思を示したのです。そして4月17日に下関条約が調印され、5月13日に批准・公布という段取りとなり、狭義の日清戦争は終わりました。

 しかし大本営は解散されず、台湾の軍事征服のための戦争は継続されました。その台湾では5月25日に台湾民主国の成立が宣言され、日本の支配を拒絶します。近代的な装備を持つ日本軍が優勢なのですが、ここでもマラリア、赤痢、かっけなどに苦しめられ、皇族の北白川宮親王も陣没しました。

 結局、台湾での抵抗は11月に鎮圧されましたが日本軍も戦死453人、病死1万236人もの犠牲を払いました。その後も日本に対する抵抗は散発的に続き、日本が大本営を解散したのは、96年4月1日のことでした。

 ここまでが広い意味での日清戦争だったのです。

■歴史的な評価

 歴史の評価というものは、どの立場に立つかによって大きく変わるものでしょう。

 日清戦争では日本人約2万人が亡くなりました(その過半数は台湾征服戦争によります)。清では約3万人、朝鮮でも3万人以上が同様に亡くなっています。

 日本は近代初の対外戦争に勝利し、賠償金や領土を獲得した結果、国際的な地位を高め、産業革命を進展できたとよく言われます。しかし、軍事史的な観点から見てみると、ずいぶん異なった結果も見えてくるのではないでしょうか。

■もっと知りたいあなたへ

戦争の日本史19 日清戦争
原田敬一著(吉川弘文館 2008年)2500円(税別)

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