萩原賢一さん<1>60歳まで働きづめも苦に思ったことはない
女中や奉公人がいる裕福なゲタ屋の家に生まれた萩原さんだが、戦争ですべてが変わったという。
「学童疎開で長野に身を寄せ、終戦で東京に戻ると、一面の焼け野原。萩原家は何もかもを失い、埼玉県小川町に移りました。当時は本当に食べるものがなく、『我慢』が体に染み付きました。私は栄養失調で通院するほどでした。ただ、通院先の宮崎病院・宮崎院長に知り合えたことは幸運でした。中学卒業後の就職先も、先生の紹介でした」
萩原さんが就職したのは、地震計を製造販売する「保坂振動計器製作所」。従業員6人の会社だった。
「15歳で就職して、初任給は3700円。食費に3000円引かれ、手元に残ったのは700円というスタートでした。ただ、手先が器用なほうで、見よう見まねでヤスリかけ、溶接、旋盤と、何でもできるようになりました。地震計は数多く出るものではありませんから、生産は手作り一点物です。まず、東京大学の地震研究所といった地震研究の教授に、地震計の図面を引いてもらいます。その図面を見ながら地震計を作ります。何度もすりあわせ、製品が完成し、教授のお墨付きが得られると、今度は大手建設会社などに売り込みます。教授との打ち合わせから、製作、営業、設置の立ち会いまでやりました」