山上公判で刑事裁判の限界を痛感 政治の罪は民意が裁くしかない【青木理 特別寄稿】
当然家計は破綻し、地元名門校に進んだ被告の将来も閉ざされた。だが、被告にとってそれが最大の遺恨ではなかったらしい。意外にも被告は当初、母の側に立って家族の結びつきを維持しようともがいていた。
考えてみれば、母もまた“被害者”だったのだ。私利私欲で信仰にのめり込んだ訳ではない。それが根本的に誤った行動にせよ、皮肉にも家族を不幸から救いたいと考えて献金を繰り返した。そして被告や被告の妹にまでカネをせびり、家族は壊れ、ついには兄まで自死してしまう。なのにその原因を作った教団は「理想家庭の建設」を堂々教義に掲げ、夥しい数の家庭を破壊して奈落の底に突き落としている。被告の遺恨は臨界を超えた。
その矛先が元首相に向かった経緯も公判で明かされたが、一方でこれが刑事裁判の限界ではあるのだろう、政治とカルトの隠微な蜜月を解明する場になろうはずはない。検察も論告で、元首相には「落ち度が皆無」であって、被告が元首相を狙ったのは「論理の飛躍がある」と断じ、判決もそれを踏襲した。
もちろん、殺人が肯定される「落ち度」などあろうはずがない。しかし政治が──特に自民党の為政者が教団と長年にわたって蜜月を契り、選挙等で持ちつ持たれつの関係を続けてきたのは公知の事実。結果、古くから反社会的活動が散々問題視されてきた教団は生きながらえ、被害者を生み出し続け、被告や被告の母もその当事者だった。


















