無名の19歳・野茂英雄に感じた可能性…投げるたびに成長し、実力を遺憾なく発揮した
全日本野球協会会長・山中正竹氏による「オリンピック野球伝道」(第3回=2020年)を再公開
日刊ゲンダイではこれまで、多くの球界OB、関係者による回顧録や交遊録を連載してきた。当事者として直接接してきたからこそ語れる、あの大物選手、有名選手の知られざる素顔や人となり。当時の空気感や人間関係が、ありありと浮かび上がる。
今回はあの野茂英雄氏について綴られた、全日本野球協会会長・山中正竹氏による「オリンピック野球伝道」(第3回=2020年)を再公開。年齢、肩書などは当時のまま。
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ソウル五輪の前年の1987年秋、19歳の野茂英雄(新日鉄堺)は社会人野球の新人研修会に参加した。82年にスタートしたこの研修会は、入社1~3年目の若手が対象。近い将来、日本代表としてプレーできるような選手を社会人野球全体で発掘する場だ。
全国大会での登板は、日本選手権(10月26日~11月4日=大阪球場)での1試合、打者2人との対戦だけだった。成城工業高(現成城高)時代は甲子園経験がなく、全国的に無名に近い存在。
私は研修会には参加しておらず、実際に彼の球を見たわけではなかったが、野茂と同い年で、後に一緒にソウル五輪メンバー入りする潮崎哲也(松下電器)とともに、かなり高い評価を受けた。制球が安定せず、粗削りではありつつも、球速や球威は優れており、大きな可能性を秘めていた。
2人は、研修会後に選んだ30人のソウル五輪代表の第1次候補には入らなかったが、ソウル五輪が行われる翌88年、強化合宿や都市対抗で期待どおり頭角を現し、最終の20人に入った。9月19日からの本番に向け、8月末からイタリアでの世界選手権、日本での4カ国対抗壮行野球(日本、米国、カナダ、豪州)を2週間で立て続けに戦い、ソウル入りした。
公開競技だった野球は、日本に加え、米国、韓国、台湾、豪州、カナダ、オランダ、プエルトリコの8チームが参加。野茂は自身初の国際試合となった世界選手権でキューバ相手に堂々と真っ向勝負を挑み、4カ国対抗戦では豪州戦、カナダ戦の2試合に登板し、無失点に抑えた。代表経験の少なさを全く感じさせなかった。ソウル五輪では金メダルを逃したものの、野茂は予選の台湾戦、準決勝の韓国戦、決勝の米国戦でそれぞれ好投。投げるたびに成長し、また周囲の期待が高まる中でも、そうしたムードに惑わされることなく、実力を遺憾なく発揮した。環境にも食事にも文句ひとつ言わず、タフな選手だった。
翌89年、私は3年後の92年に行われるバルセロナ五輪の代表監督に就任した。海外で野球を経験するたびに目からウロコが落ちた。日本と海外の野球の違いはもちろん、スポーツの価値や魅力を知った。私にとって当たり前だった日本の野球は、海外から見れば異質だった。野球を通して世界中に仲間ができ、世界の野球をもっと知りたいと思っていた私に断る理由はなかった。大変な責任を負うことは分かっていたが、3年後に向けて挑戦したい気持ちが上回った。
こうして迎えた89年5月、キューバを日本に招いて親善国際大会を行った。日本にとって初のキューバとの親善試合。バルセロナ五輪から野球が正式種目になり、当時、世界最強だったキューバを呼んで、キューバの野球を日本中の人たちに見てもらいたかった。勝って金メダルを獲得するためにも、まずは選手や日本球界の人たちがキューバ野球を知る機会をつくりたかった。
第1戦の東京ドームを皮切りに、西武球場、グリーンスタジアム神戸、千葉県営球場と転戦し、5戦目の最終戦に再び東京ドームで戦った。監督としての初陣となった第1戦の先発に、私は日本のエース格だった野茂ではなく、代表初選出の与田剛(NTT東京)を起用した。周囲は初戦は野茂だろうと見ていたはずだが、この起用にはある理由があった。(つづく)
▽やまなか・まさたけ 1947年4月24日、大分県生まれ。佐伯鶴城高、法政大、住友金属工業で投手としてプレー。東京六大学最多勝利記録保持者(48勝)。住友金属で監督を務めた後、88年ソウル五輪コーチで銀メダル、92年バルセロナ五輪監督で銅メダルを獲得。法政大監督、横浜ベイスターズ専務などを歴任し、2016年野球殿堂入り。17年から侍ジャパン強化委員会強化本部長を務め、18年に全日本野球協会会長に就任。


















