「きらん風月」永井紗耶子氏

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「きらん風月」永井紗耶子著

 今からおよそ200年前の文化15年。隠居の身となっていた元老中・松平定信は、お忍び旅の帰途、東海道・日坂宿(現在の静岡県掛川市)の小さな煙草屋に立ち寄った。

 出てきた店の主は定信よりいくつか年上の白髪の老爺。名を栗杖亭鬼卵という。変わった名だが、実在の人物。狂歌、浮世絵、戯作をこなした文化人で、今でいえばフリーランスのマルチクリエーターだろうか。

「鬼卵の狂歌を定信がほめた、という逸話が残っているんです。同時代に生きていた2人がもし本当に会っていたら何を話しただろう、と想像して書きました。テレビ番組などで異色対談というのがあるでしょう。普段は会うことのない畑違いの2人が会話する。そんな感覚ですね」

 格式ばった元老中と、飄々とした自由人。2人は店先で煙草をくゆらせ、相対する。鬼卵は定信に問われるままに、自分の来し方を語り始めた。

 河内国(大阪)で生まれ、活気あふれる上方文化に触れて育ったこと。文人墨客のもとで学んだ日々。上田秋成や円山応挙との交流……。そして、目の前の相手を定信と知ってか知らずか、元老中を名指しで「無粋」「傲慢」とこき下ろす。

「定信は『寛政異学の禁』を出したり、卑俗な芸文を取り締まったり、文化を抑圧する政策をとった人です。治めやすい国づくりを考えたのでしょうが、鬼卵たち文化人は反発しました。今の時代にも通じるものがありますよね。鬼卵という人の物語を書いても『それ誰?』って、読んでもらえないでしょう。定信との衝突を語れば、戯作者ものに終わらず、この時代が見えてくるのではないかと。政治と文化って別々に語られがちですが、深く絡み合っているんですよね」

 鬼卵は偉そうな相手に臆することなく語り、ふふふ、と小さく笑い、ときにわざとらしく恐縮してみせる。対する定信は眉を寄せ、気色ばみ、無礼千万と腹を立てる。それでも何とかブチ切れずに異色対談は続き、定信は鬼卵がただ者ではないと知る。この老爺は東海道を遍歴して文化人の一大ネットワークを築き上げていた。

 鬼卵という自由人と対話するうちに定信は、己をも知ることになる。家督を譲り、自らの雅号を「風月翁」「楽翁」としたにもかかわらず、政に何かと口を出し、下の者に煙たがられている。これでよいのか。

「定信って、清廉潔白な正しい人のイメージだったんですけど、資料を調べてみると、自己肯定感が強くてかなり面倒くさいおじさんだったみたいです(笑)。権力が大き過ぎて、軽く振り下ろした拳が強く当たってしまう。権力にすり寄ってくる人、忖度する人も現れて、自分が見えなくなる。そんな権力者に対して『わて、違うんですわ』とさらっと言える鬼卵て、相当な人間力の持ち主だと思います」

 鬼卵と会った後、定信は変われたのだろうか。風月を愛で、余生を楽しんだのだろうか。読後のそんな想像が楽しい。 (講談社 1980円)

▽永井紗耶子(ながい・さやこ) 1977年、神奈川県出身。慶応義塾大学文学部卒業。産経新聞記者を経てフリーライターに。2010年、「絡繰り心中」で作家デビュー。「商う狼 江戸商人 杉本茂十郎」「女人入眼」などの時代小説が高く評価され、23年、「木挽町のあだ討ち」で直木賞と山本周五郎賞をダブル受賞。

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