著者のコラム一覧
増田俊也小説家

1965年、愛知県生まれ。小説家。北海道大学中退。中日新聞社時代の2006年「シャトゥーン ヒグマの森」でこのミステリーがすごい!大賞優秀賞を受賞してデビュー。12年「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」で大宅壮一賞と新潮ドキュメント賞をダブル受賞。3月に上梓した「警察官の心臓」(講談社)が発売中。現在、拓殖大学客員教授。

世界は理解不能なまま在り続ける 『蟲師』(全11巻) 漆原友紀作 

公開日: 更新日:

『蟲師』(全11巻〈本編10巻+特別編1巻〉) 漆原友紀作  

★あらすじ
人間社会と自然のはざまに存在する原初的生命「蟲」を巡り、蟲師ギンコが各地を旅する連作短編である。蟲は善悪を持たず、ただ在るがゆえに人の暮らしへ静かな歪みをもたらす。病いや怪異のように現れるそれらに対し、ギンコは排除や救済ではなく、因果を見極め、最小限の介入で均衡を取り戻そうとする。語られるのは勝利ではなく、選択の余韻と失われるものの重さだ。自然への恐れと共生の困難さを、淡い光と沈黙で描いた、静謐な寓話的世界。


 きわめて異質な静寂をまとった作品である。怪異譚、民俗幻想、ヒーリング漫画--どの呼び名も誤りではないが、同時に核心からは距離がある。『蟲師』が描いているのは癒やしではないし、自然賛歌でもない。この作品の中心にあるのは、「世界は理解不能なまま存在し続ける」という、受け入れがたい事実である。

 作中に登場する蟲は、善でも悪でもない。人を救うこともあれば、破滅させることもあるが、その振る舞いに意思はない。彼らはただ在る。人間の倫理や感情とは無関係に、生態として存在している。この無関心さこそが、『蟲師』の根幹を成している。蟲は罰を与えないし、試練も課さない。人が傷つくのは、世界が残酷だからではなく、世界が人間を配慮しないからだ。

 主人公ギンコは、この世界観を最も正確に体現する存在である。彼は蟲を討伐する英雄でも、村を救う救世主でもない。できることは限られている。調べ、説明し、時には対処するが、必ずしも事態を好転させられるわけではない。助かる者もいれば、失われる者もいる。ギンコ自身もその結果から自由ではない。彼は職業として蟲師である前に、「できないことを知っている人間」として描かれている。

 物語構造は、一見すると単話完結の形式をとる。しかし実際には、どの話も完全には閉じない。救いがあっても、それは部分的で、暫定的だ。問題は解決されても、世界そのものは変わらない。次の土地では、また別の蟲が、別の悲劇を生む。この反復は、読者に安心ではなく、諦観をもたらす。世界は改善されない。ただ続いていく。

 本作が描く自然は、美しいが、決して優しくはない。山や川、霧や雪は、情緒を伴って描かれるが、人の命を守る存在としては扱われない。自然は背景ではなく、主体でもない。人と並列に存在する「別の論理の体系」として置かれている。そのため、登場人物たちはしばしば、自分の不幸の理由を理解できないまま、選択を迫られる。理解できないからといって、選ばなくてよいわけではない。この冷酷さが、読後に独特の重さを残す。

 特筆すべきは、この作品が「説明」を極端に拒んでいる点だ。蟲の正体は完全には語られないし、世界の成り立ちも明かされない。読者は常に、分からないまま物語を読み進めることになる。だがその不親切さは、欠点ではない。むしろ、世界を理解しきれないまま生きる人間の姿を、最も誠実に再現している。分からないことがある、という状態そのものが、この漫画の読書体験なのだ。

 ギンコは多くを語らない。感情をあらわにすることも少ない。しかし彼の沈黙は冷淡さではなく、距離の取り方である。深入りすれば、事態を悪化させることもある。関わりすぎれば、誰かの人生を壊してしまうかもしれない。そのことを知っているからこそ、彼は一線を引く。その姿勢は優しさではない。責任の形である。

 作品に希望がないわけではない。ただしそれは、未来が良くなるという種類の希望ではない。理解できなくても、生きていくしかないという、きわめて消極的な肯定がある。世界は理不尽で、人は無力で、救いは限定的だ。それでも、今日をやり過ごすことはできる。その静かな肯定が、この作品を単なる幻想譚から引き離している。

 この漫画を読み終えたとき、胸に残るのは感動ではない。説明しきれない疲労と、微かな納得である。世界は分からないままでいいのかもしれない。そう思わせる力を、『蟲師』は持っている。何も解決しないからこそ、この作品は長く残る。評価されるとすれば、それは完成度の高さではない。世界と人間の距離を、ここまで誠実に描いた姿勢そのものが、評価されるべきなのである。
(講談社 kindle版 792円~)


最新のBOOKS記事

日刊ゲンダイDIGITALを読もう!

  • BOOKSのアクセスランキング

  1. 1

    一度は行ってみたい世界遺産、飛鳥・藤原の宮都を知る本特集(2)遺跡から浮かび上がる古代人の日常

  2. 2

    女3人で「姦」、では、男3人「𪟧」は何と読む?「辞典には載っていない絶滅漢字図鑑」竹澤雅文(拾萬字鏡)著

  3. 3

    一度は行ってみたい世界遺産、飛鳥・藤原の宮都を知る本特集(3)失われた宮都の景観をCGで再現

  4. 4

    渋さと垣間見える緩さが紛れもなくパトレイバー│「『機動警察パトレイバー』寿司屋の後藤」伊藤和典著

  5. 5

    「すすきの近くの喫茶店でバイトしていたときに経験したのことを膨らませた物語です」──「HOTEL NIGHTHAWKS」小路幸也氏

  1. 6

    (65)扇の緑の松がちらちら見え隠れ

  2. 7

    一度は行ってみたい世界遺産、飛鳥・藤原の宮都を知る本特集(1)飛鳥はなぜ宮都に選ばれたのか

  3. 8

    山崎ナオコーラ(作家)自分たちの生きる能力の低さを実感

  4. 9

    当事者視点から学ぶ規格外を排除する社会の病「認知症の進行を早める生活、遅らせる習慣」丹野智文、恩蔵絢子著/中央法規出版(選者:稲垣えみ子)

  5. 10

    こころの本屋(豊島区・東長崎)「自分の盛大な積ん読本というか『読みたい』と思った本を仕入れています」

もっと見る

  • アクセスランキング

  • 週間

  1. 1

    簗農相の「更迭」に手間取る理由…与野党のどこの誰が反対しているのか

  2. 2

    関脇・藤ノ川が「増量計画」を宣言! あの貴景勝は適正体重130キロから“戦うための183キロ”へ

  3. 3

    長嶋茂雄監督のことを「好きなわけない」とキッパリ “空白の一日”から4年後の本音を語った選手

  4. 4

    簗農相続投で炎上止まらず、自民党内からも批判噴出…高市首相の「アンケート」が完全裏目に

  5. 5

    中日次期監督に工藤公康氏が選ばれて、桑田真澄氏が落選したワケ…元SBコーチ「工藤野球」の正体明かす

  1. 6

    バナナマン日村勇紀の幸せ休養生活 “愛妻”神田愛花アナとのベッドからは唐揚げがポロリ!

  2. 7

    timelesz会見で注目された篠塚大輝の成長 アンチも認めた“完璧な”振る舞い

  3. 8

    落合監督は首脳陣と選手の食事会場を分け酒の差し入れも

  4. 9

    お疲れさま外務省…中国の「高市早苗」呼び捨てに抗議、せっかくの“対話サイン”にイキリ返し広がるア然

  5. 10

    バナナマン日村が簡単に復帰できそうにない「もう1つの理由」…レギュラー11本抱える人気者のジレンマ

おすすめ求人情報

週1~2日在宅OK!広告制作会社で営業事務のお仕事
株式会社博報堂DYキャプコ 東京都 港区 派遣社員
時給1,850円~1,940円
在宅診療の診療同行看護師/夜勤なし/年間休日数126日/未経験OK
医療法人社団やまと 宮城県 仙台市 正社員
月給28万6,500円~34万3,500円
フルリモート・フレックス勤務可能/オペレーションエンジニア
OCH株式会社 三重県 正社員
年収300万円~500万円
Sponsored by 求人ボックス