「美味い」は誰が決めるのか――言葉と権威の力学 『美味しんぼ』(既刊111巻) 雁屋哲原作、花咲アキラ作画
『美味しんぼ』(既刊111巻) 雁屋哲原作、花咲アキラ作画
★あらすじ
新聞社に勤める記者・山岡士郎と栗田ゆう子が、「究極のメニュー」を作るために日本各地の食文化を取材する物語である。料理や食材を巡る対決の背後には、山岡の父であり絶対的な美食の権威である海原雄山の存在がある。雄山は味を「正しさ」として断じ、山岡は生活の側から食を見つめ直そうとする。親子の確執、料理人や生産者の矜持、メディアが価値を選別し広める力が絡み合い、単なるグルメ漫画にとどまらない。何を美味いと決めるのか、その判断は誰のものかを問い続ける、社会性の強い長編作品。
本作の本質は、どの料理が美味しいかを競うことではない。味覚や食材の優劣は、あくまで入り口にすぎない。物語が本当に描いているのは、「美味い」という判断が、誰の言葉によって決まり、どのように社会に広まっていくのかという問題である。食の話を借りて、価値判断と権力の関係を描いている。その中心に据えられているのが、魯山人という強烈な個と、新聞社という集団の装置だ。
山岡士郎の父・海原雄山は、単なる美食家ではない。彼は明確に、北大路魯山人をモデルとした存在として描かれている。芸術家であり、支配者であり、審美の権威。雄山の発言は「好み」では終わらない。彼が語るのは感想ではなく、「正解」である。美味いかどうかではなく、分かっているかどうかが問われる。その姿は、魯山人が実際に持っていた魅力と暴力性を、ほとんどそのまま引き受けている。
魯山人という存在が厄介なのは、単なる暴君ではない点にある。彼の言葉の多くは、確かに筋が通っている。食材への敬意、作り手の覚悟、安易な妥協への嫌悪。どれも、現代の大量消費社会では軽視されがちな感覚だ。だからこそ、人は彼の言葉に引き寄せられる。だが同時に、その言葉は異論を許さない。この正しさと排他性の同居こそが、雄山という人物を危うく、そして魅力的にしている。
この強大な権威に対峙する場として用意されているのが、新聞社である。山岡士郎と栗田ゆう子が所属する東西新聞は、単なる舞台ではない。新聞社とは、価値を選び、整理し、社会に届ける装置だ。何を「本物」とし、何を切り捨てるのか。その判断は、記事という形で読者の前に現れる。『美味しんぼ』は、食を題材にしながら、メディアが持つ編集権と、その裏にある暴力性をかなり露骨に描いている。
山岡は、雄山のような絶対的な権威にはなれないし、なろうともしない。彼が選ぶのは、生活の側から食を見る視点だ。高級料理よりも、日常の一杯の味噌汁。理念よりも、現場の手触り。その姿勢は一見、権威への反抗のように見えるが、完全な否定ではない。山岡は雄山を否定しながら、その影響から逃げきれずにいる。このねじれた関係があるからこそ、『美味しんぼ』は単純な勧善懲悪に落ちない。
重要なのは、最終的な勝敗が、読者の舌ではなく、新聞紙面で決まる点だ。どの料理が優れているかよりも、どの価値観が活字になるかが問題になる。ここに、この作品の怖さがある。料理の話をしているようで、実際に描かれているのは、言葉と権力の力関係なのだ。
魯山人自身も、生前からメディアと緊張関係にあった人物だった。称賛され、誤解され、消費される。その過程そのものが、彼の評価と切り離せない。『美味しんぼ』は、その構造を現代の新聞社という舞台に移し替えた。雄山は過去から続く権威であり、山岡は現在の現場であり、新聞社はそれを編集し、世に流す装置である。この3者の関係が続く限り、物語は終わらない。
だから『美味しんぼ』は、単なる料理漫画ではない。誰が「本物」を名乗り、誰がそれを言葉にし、誰が信じるのか。その構図そのものが、日本社会の縮図として描かれている。雄山という強烈な個と、新聞社という集団装置。その間で揺れる主人公の姿に、読者は自分自身の立ち位置を重ねることになる。
これは、美味いものを食べる話ではない。美味いと言っていいのは誰かという問いを、30年以上かけて掘り続けてきた作品である。その執念深さこそが、『美味しんぼ』という漫画の到達点なのだ。
(小学館 kindle版 759円~)


















