時代の転換期に起きた江戸時代最大の裁判劇「虚空蔵の峯」飯嶋和一氏

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「虚空蔵の峯」飯嶋和一著

 民衆や在野の人物を多く描いてきた歴史小説家の最新作は、農民一揆に端を発した江戸時代最大の裁判劇。

 宝暦5(1755)年も暮れかけた厳寒の江戸に、美濃国(今の岐阜県)郡上から6人の百姓衆がやって来る。彼らは登城途中の老中、酒井忠寄の駕籠を止め、郡上藩の悪政非道を訴える訴願状を差し出した。この駕籠訴を機に始まる一連の裁判劇は、終結までに足かけ5年を要した。

「農民一揆は普通、短期決戦です。これほど長くやっているのは、ただごとじゃない。なぜ5年も頑張れたのか、それを支えたものは何だったのか。書きたかったのは、そこです」

 駕籠訴の一行は牢屋行きを免れ、神田橋本町の公事宿、秩父屋に留め置かれる。公事宿とは、公事訴訟のために地方から出てきた人を泊め、訴訟の手助けもする特殊な宿。秩父屋の主人、半七の目に映った郡上の百姓衆は、立ち居振る舞いが折り目正しく、年かさのリーダー、善右衛門を敬っている。

 彼らは、勝手口の隅に無造作に置いてある小さな木彫り像にひざまずき、神妙な顔で手を合わせた。

 駕籠訴の成就を報告していたのかもしれない。遊行僧が彫った素朴な像が、修験の峯・白山の御神体、虚空蔵菩薩であることを、半七は初めて知った。

「小説ですから仮説でしかありませんが、彼らの力の源に、山岳信仰、白山信仰があったんじゃないかと思うんですよね。山の頂には先祖の霊がいて、どう生きるかを見ている。だから、いざというときは腹をくくって、先祖の霊に恥じない生き方をしよう、と」

 彼らが命がけで幕府に差し出した33カ条に及ぶ訴願状から、郡上の農民のうめき声が聞こえてくる。年貢の増徴、御用金や藩主道中銀の踏み倒し、労役の人足代の不払い……。郡上藩の苛政は藩の内政問題にとどまらなかった。審議が進むなかで郡上藩主と公儀役人との癒着も明るみに出て、幕府を揺るがす一大事となっていく。そして、将軍家重の命を受けた側用人、田沼意次が審議に加わることになる。

「彼は悪徳政治家の見本みたいにいわれてきたけど、政治家としては優れていたと思うんです。このままでは農村が崩壊する、商人から税を取ろうと発想したのは彼でしょう。年貢を上げればいいと言っていた連中は、みなこの裁判で失脚します。幕閣の中のパワーゲームがからんでいたという気がしますね」

 農本主義から貨幣経済へ。時代の転換期に起きた異例の長期裁判劇の中で、さまざまな人物が我欲と保身に走る。為政者は身内に甘く、民には冷酷非情。270年たった今も人間、そう変わっていない。だからこそ、善右衛門たちのように覚悟をもって権力に物申した人の勇気と品格が輝いて見える。

「どこまで人間らしくいられるのか。最後に問われるのはそこじゃないですか」

 史実を積み重ねた厚みのある物語と緻密な細部。読者はあの時代のリアルを感じ取り、いつのまにか歴史に学んでいる。これぞ歴史小説。 

(小学館 2310円)

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