永遠に生きることで、人間でいられなくなる 『ポーの一族』(全5巻) 萩尾望都作
『ポーの一族』(全5巻) 萩尾望都作
★あらすじ
不老不死の一族「バンパネラ」として生きる少年エドガーと、その親友アランを中心に描かれるゴシックロマンである。時代を超えて生き続ける彼らは、永遠の命と引き換えに、成長も老いも許されない孤独を背負う。愛する者は先に老い、別れは必然として訪れる。変わらぬ姿のまま歴史を見送る彼らの時間は、希望と喪失を同時に刻み続ける。生きることの意味、終わりを持たない命の残酷さを、静かな抒情とともに描いた、少女漫画史に残る異色の叙事詩。
日本漫画史の中で、きわめて異様な位置に立ち続けている作品である。ドラキュラ譚、ゴシックロマン、永遠の少年少女--それらの呼称は間違いではないが、いずれも表層にとどまる。むしろそれらの分類語が、この作品の本質を遠ざけてきたとも言える。『ポーの一族』が描いているのは吸血鬼の物語ではない。「時間に取り残された存在が、それでもなお人間であろうとすることの不可能性」、その一点に尽きる。
エドガーとアランを中心とするポーの一族は、永遠の命を持つ存在として描かれる。しかしこの永遠は、決して祝福ではない。作中で一貫して示されるのは、永遠がもたらすのが力でも自由でもなく、断絶であるという事実だ。彼らは老いず、死なない。その代わり、世界だけが変わり続ける。友は老い、価値観は更新され、倫理は書き換えられる。時間は彼らを殺さないが、確実に孤立させる。
本作の恐怖は、血や牙といった視覚的要素にはない。恐ろしいのは、時間の流れが一方通行であるという構造そのものだ。人間は有限であるからこそ、関係を結び、責任を引き受け、別れを完了させることができる。しかしポーの一族には、その「完了」が訪れない。彼らは何度も同じ別れを繰り返し、同じ喪失を生き直す。悲しみに慣れることすら許されない。永遠とは、感情が摩耗しないまま、傷だけが増殖していく状態なのだ。
エドガーはしばしば「永遠の少年」と呼ばれるが、この理解もまた危うい。彼は無垢な存在ではない。むしろ過剰なまでに自覚的だ。自分が人間社会に長く関わることの危険性を、誰よりも理解している。老いない自分の存在が、相手の時間を歪め、人生を破壊してしまうことを知っている。それでもなお関係を結んでしまう。その姿に描かれているのは、誘惑ではない。依存であり、弱さである。
『ポーの一族』が決定的に優れているのは、永遠の側に立つことを一度も肯定しない点にある。人間の生が尊いのは短いからだ、という単純な道徳にも回収されない。むしろ本作は、人間であることそのものが、すでに不完全で、痛みに満ちた営みであることを前提とする。その上で、永遠を得た存在が、その不完全さからすら排除されてしまう残酷さを描く。ポーの一族は、人間より上位の存在ではない。人間でいられなくなった存在なのだ。
作品全体に漂う孤独は、感情の問題ではなく構造の問題である。どれほど愛しても、どれほど理解し合っても、時間だけは共有できない。この断絶は、努力や善意では埋まらない。だから物語は繰り返し「去る」という選択を描く。残ることは相手の人生を侵食する行為であり、去ることもまた自己保存にすぎない。そのどちらにも救いは用意されていない。
萩尾望都の筆致は、この救いのなさを決して誇張しない。感情は抑制され、セリフは静かで、空白が多い。その沈黙の積み重ねの中で、読者は理解する。これは吸血鬼の悲劇ではなく、「長く生きすぎた意識」の物語なのだと。時間の加速、価値観の断絶、居場所の喪失--現代を生きる私たちが感じる感覚の原型が、すでにここに描かれている。
この作品は希望を示さない。解決も用意しない。ただ、時間に抗えない存在の姿を、淡々と描き続ける。その冷静さこそが、この作品の残酷さであり、同時に誠実さでもある。読み終えたあとに残るのは感動ではない。静かな疲労と、言葉にならない孤独だ。それでも人はこの漫画を繰り返し読む。なぜならそこには、永遠を恐れ、有限を失いつつある私たち自身の姿が、否応なく映し出されているからである。
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