著者のコラム一覧
増田俊也小説家

1965年、愛知県生まれ。小説家。北海道大学中退。中日新聞社時代の2006年「シャトゥーン ヒグマの森」でこのミステリーがすごい!大賞優秀賞を受賞してデビュー。12年「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」で大宅壮一賞と新潮ドキュメント賞をダブル受賞。3月に上梓した「警察官の心臓」(講談社)が発売中。現在、拓殖大学客員教授。

救えない命を知りながら、医師は手を伸ばす 『JIN-仁-』(文庫版 全13巻) 村上もとか作

公開日: 更新日:

『JIN-仁-』(文庫版 全13巻) 村上もとか作  

★あらすじ
現代の脳外科医・南方仁が、幕末の江戸へとタイムスリップすることから始まる医療ドラマである。満足な医療器具も知識体系もない時代に放り込まれた仁は、感染症や外傷に苦しむ人々を前に、医師としての使命と歴史を変えてしまう恐れの狭間で葛藤する。坂本龍馬をはじめとする実在の歴史人物との出会いは、医学だけでなく、命の価値や未来の意味を問い返す。救うことで失われるもの、救わなければ残る後悔。その選択を積み重ねながら、仁は医療とは何か、人を救うとはどういうことかを自らに問い続けていく。


タイムスリップ漫画の形式を借りながら、その実、時間移動そのものにはほとんど関心を示さない作品である。現代の脳外科医・南方仁が幕末に飛ばされるという設定は派手だが、物語が掘り下げていくのは「過去を変えられるか」というSF的命題ではない。むしろ本作が執拗に描くのは、人間はどこまで無力で、どこまで責任を負える存在なのか、という問いである。

 幕末という時代は、多くの作品で英雄の時代として描かれる。志士たちが未来を語り、血を流し、歴史を前へ進めていく。しかし『JIN』において、その時代は決して都合のよい舞台ではない。病は蔓延し、医療は未熟で、死はあまりにも身近だ。仁が持ち込む現代医学は奇跡のように見えるが、同時に異物でもある。抗生物質も、手術技術も、そこでは「正しすぎる」のだ。

 仁はしばしば救世主として受け取られる。しかし作品は、その立場を安易に肯定しない。彼が救える命は限られている。救ったことで歪む因果もある。何より、救えなかった命が必ず残る。坂本龍馬や咲といった人物が放つ光の裏で、名もなき人々は変わらず死んでいく。仁は医師として最善を尽くすが、その最善は、世界全体を良くする保証にはならない。

 本作の核心は、医療行為が常に倫理と暴力の境界線に立っている点にある。切開は救命であると同時に、身体への侵入だ。薬は希望であると同時に、選別の道具になる。誰に使い、誰に使わないか。その判断を下すのは医師であり、同時に一人の弱い人間だ。仁は決して超然としない。迷い、恐れ、時には判断を誤る。その姿勢が、この作品をヒーロー譚から遠ざけている。

 また、この作品が優れているのは、歴史上の人物を「象徴」に回収しない点だ。坂本龍馬は理想の革命家ではなく、死を予感しながらも笑い続ける一人の男として描かれる。咲は献身的なヒロインである以前に、時代に縛られた女性であり、報われない選択を自覚的に引き受けている。彼らは歴史を動かす歯車である前に、感情を持った人間として存在している。

 物語後半で浮かび上がるのは、「歴史を変えないこと」の重さだ。未来を知る仁は、龍馬の死も、日本の行く末も知っている。それでも彼は、それを覆す英雄にはならない。変えられないと知りながら、目の前の一人を救う。その反復こそが、この作品の倫理である。大きな流れに抗わず、小さな命に手を伸ばす。その姿勢は地味で、報われない。

 読後に残るのは感動というより、疲労に近い感覚だ。救われた命の数と同じだけ、救えなかった命の影が積み重なる。未来は明るくならないかもしれない。それでも医師は手を洗い、次の患者に向かう。本作が描くのは、希望ではなく職業的矜持だ。逃げないこと、目を逸らさないこと、それだけを積み上げていく生の重さである。

 だから『JIN』は、美談では終わらない。過去を舞台にしながら、問いは現代に向けられている。私たちは、知ってしまったあと、どこまで責任を負えるのか。力を持ったとき、どこまで使わずにいられるのか。その問いを静かに突きつける点で、『JIN』は医療漫画である以前に、人間の限界を描いた記録なのである。
(集英社 kindle版 763円~)


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