「見えるか保己一」蝉谷めぐ実氏
「見えるか保己一」蝉谷めぐ実氏
歌舞伎を題材とした歴史時代小説で数多くの文学賞を受賞してきた著者。2年ぶりの新作では初めて歌舞伎から離れ、歴史上の偉人を主人公に据えた。その人物とは塙保己一。江戸時代後期、各地に散逸していた貴重な文献を取り集め、666冊にも及ぶ叢書「群書類従」を編纂した、全盲の天才学者だ。
とはいえ、名前を聞いたことはあっても、小説やドラマでもあまり馴染みがないと感じる人が多いのではないか。
「作家として新しいテーマに挑戦したいと考え、平安時代の装束などを学ぶ講座に通っていたとき、塙保己一の名前が出てきたんです。先生いわく、現代の私たちが枕草子や源氏物語を正しい形で知ることができるのは、塙保己一という学者の偉業のおかげ。なのに、あまり世の中に知られていないと。だったら私が!とすぐに資料集めと執筆にとりかかりました」
1746年、武蔵国児玉郡保木野村に生まれた保己一。幼い頃から物覚えの良い子どもだったが、病により7歳で失明してしまう。しかし、軍記物語の「太平記」を暗記して読み聞かせる生業があると知り、学問を志して15歳で江戸に出る。
「描き始めの頃、目が見えない保己一は視覚以外の感覚が鋭く、常人では到達できない世界も見えていた、などと考えていました。でも彼を知るほどに、それは私の中にある偏見だと感じるようになったんです。そもそも保己一には不器用なところがあり、当時の盲人の主な生業だった鍼や按摩も上達しなかったそうです。自分に都合のいい、美化したイメージで保己一を描くことは絶対にするまいと、意識が変わった瞬間がありました」
いわゆる偉人伝にはしたくなかったという著者。驚異的な暗記力を生かし、学者として名を馳せていく軌跡を客観的に追いながら、評伝には載っていない人間・保己一の内面にも大胆に踏み込んでいる。その絶望や苦悩を残酷なまでに浮き彫りにするのが、目明き--見える人々とのすれ違いだ。
「学者仲間や門弟たちが“見ている”現実と、保己一が“感じている”現実には、どうしたってズレが生じる。それが双方を苦しめるという現実に、逃げずに向き合ったつもりです。また、“愛ゆえに壁を乗り越えて”という感動秘話に組み込まれやすい女性たち、本作では保己一の妻や娘という存在の葛藤についても描き切ることができました」
周囲の人物像を掘り下げることで、人間・保己一の輪郭が鮮やかに浮かび上がる。そして保己一自身と多くの盲人との間にもまた相違があり、越えられない溝があることにも著者は切り込んでいる。人間という生き物の多面性をこれでもかと突き付けられ、圧倒されてしまう。
「読んだ前と後で、物事の捉え方や価値観がひっくり返るような作品になっていればうれしいですね。これまで小説を描くことは楽しいばかりでしたが、今回初めて苦しくて、やめたいと思わされました。でもその分、自分が今持っているものは出し切ったと自信を持って言えます」
気鋭作家の新境地となった本作。読後、保己一が“見てきた”ものに思いを馳せながら、自分自身はこれまで何を見てきたのかと考えずにはいられなくなるだろう。 (KADOKAWA 2035円)
▽蝉谷めぐ実(せみたに・めぐみ) 1992年大阪府生まれ。早稲田大学文学部卒。2020年「化け者心中」でデビュー。21年同作で日本歴史時代作家協会賞新人賞、中山義秀文学賞受賞。22年刊行の「おんなの女房」で野村胡堂文学賞、吉川英治文学新人賞受賞。24年「万両役者の扇」で山田風太郎賞を受賞。



















