薩長同盟を締結させた英傑・桂小五郎の功績
桂は京都留守居役の地位にありながら、禁門の変に参加せず、敗戦直後には乞食に。恋人の芸妓・幾松が三条大橋に運んでくれた握り飯で飢えをしのぎつつ、情報収集に専念しました。その後、但馬国出石(現・兵庫県豊岡市出石町)を経て、対馬藩邸に身を寄せます。
長州藩受難の時代が、続いていました。慶応元(1865)年5月、桂は6カ月間に及ぶ消息不明を経て国許に戻り、藩主に「軍政をととのえて時期を待つべし」と進言。藩命で「木戸貫治」と改名します(のち孝允となる)。
桂あらため木戸は、藩内の俗論党を処分。慶応2年には長州藩を代表して京都に潜入し、薩摩藩家老の小松帯刀、同藩士の西郷吉之助(隆盛)、大久保利通らと会見。坂本龍馬の到着後、有名な「薩長同盟」を締結します。
薩長同盟は、一種の奇跡でした。長州藩にとって薩摩藩は禁門の変などで自分たちを追い詰めた怨敵。「薩賊」と呼んで憎んでいたのに、一瞬にして同志になったのですから。両藩はともに戊辰戦争を戦い、明治政府を樹立。“ご一新”を成し遂げました。