塩で大儲け!「サハラ縦断交易」の繁栄から零落まで 黄金狙ったヨーロッパの横やり
さて、今回はクイズから始めましょう。写真①に写っているものは何でしょうか? ヒントは、サハラ砂漠で取れるもので、人間にとって欠かせないものです。
実は、これはサハラの岩塩なのです。サハラはかつて海の底でしたが、海底が隆起して海水が取り残され、それが蒸発した結果、巨大な岩塩の層が形成されています。古来人類は岩塩をこのように板状に切り出し、紐で縛ってラクダに振り分けて載せ、数百キロもの道のりを運ぶ国際交易をおこなっていました。
このヒトとモノの流れが歴史を動かしたのです。
■気候と生態系の変化
世界最大の砂漠であるサハラ(地図)は、アフリカ大陸の北西部に広がっており、人を寄せ付けないほど厳しい環境です。しかし、今から4000年ほど前までは、サハラは砂漠ではなく、雨期に恵まれるサバンナ気候だったと言ったら、皆さん驚かれるでしょうか。
実際、タッシリ=ナジェールなどサハラの中央部の岩山には、キリン、象、カモシカ、ワニ、牛などの動物や、川を泳ぐ人や狩りをする人の壁画が残されています。実はサハラは緑豊かな狩猟世界だったのです。その後、地球全体の温暖化とともに西アフリカの乾燥が進み、サハラの気候と動植物の生態系は大きく変化しました。
■黒人王国の誕生
エジプト方面からラクダがもたらされ、サハラ縦断交易に利用されるようになります。サハラの岩塩をラクダのキャラバンで運び、ニジェール川流域で取れる砂金と交換する国際交易は古来、多くの人を引きつけてきました。
この長距離交易によって、クンビ・サーレという町を首都とするガーナ王国が4世紀に建てられます。当初はアラブ系のベルベル人というアフリカ北西の人々の王国でしたが、7世紀ころに臣下の黒人が王に取って代わったようです。以後、ガーナ王国、マリ王国、ソンガイ帝国というニジェール川流域に誕生した黒人王国は、いずれもサハラ縦断交易の富をもとに繁栄してゆきました(地図)。
さらに、12世紀ころ、モロッコから遠征してガーナ王国を崩壊に追い込んだムラービト朝がイベリア半島をも征服すると、ニジェール川の黄金を商うネットワークは、サハラ砂漠を経て地中海、そしてイベリア半島にまで拡大しました。アフリカ大陸の地中海沿岸地域には、この黄金を目当てにしたイタリアや南フランスなどヨーロッパ商人たちが多く来航するようになります。
サハラ縦断交易がもたらしたもうひとつの影響は、サハラ以南にイスラームが広まったことです。イスラームという宗教に内在する社会や文化の体系も、サハラ以南に伝播することになったのです。ただし、その中には、ヨーロッパ人や現代の人々が抱くようになる黒人への差別や偏見の芽が含まれていたことは指摘しておきたいと思います(資料②)。神の前の人間の平等を唱えるイスラームをもってしても、文化の違いにもとづく偏見は、なかなか乗り越えられないものなのだと痛感します。
【資料②】マクディシー(10世紀)
「黒人たちには結婚の習慣がないので、子どもたちは自分の父親を知らない。彼らは人を食べている。ザンジュ(黒人奴隷)は色が黒く、鼻がぺちゃんこで、縮れ毛で、理解力や知性をほとんど持ち合わせていない」 私市正年著 世界史リブレット60「サハラが結ぶ南北交流」(山川出版社、2004年)から
エジプトの金下落
さて、資料③をご覧ください。歴史家のウマリーが記したエジプトに関する地誌です。ここで紹介されている「スルタン・ムーサー」とは、マリ王国の最盛期を築いたマンサ=ムーサー王(在位1312~37年)のことです。彼は敬虔なイスラーム教徒の義務として、聖地メッカへ巡礼します。マリ王国からメッカに行くには、サハラ砂漠を縦断して北アフリカに進み、そこから東方のエジプト・カイロへ向かい、さらに紅海を渡ってアラビア半島に行く必要がありました。マンサ=ムーサー王がカイロで莫大な黄金をばらまいたため、カイロにおける金の価値は下落してしまいます。そして驚くべきことに、王の巡礼から12年後にウマリーがカイロに行った時も、金の価値はまだ回復していなかったといいます。マリ王国に莫大な富をもたらしたサハラ縦断交易が、いかに重要だったかを示すエピソードです。
【資料③】ウマリー「諸王都の国土における洞察の小道」(14世紀)
私がはじめてエジプトに来て逗留していた頃、このスルタン・ムーサーが巡礼にやって来た話を聞かされたものだが、カイロの住民たちは彼らの見たこの人々の豪勢な金遣いの話でもちきりだった。私はミフマンダール(※A)を務めるアミール、アブー・アルアッバース・アフマド・イブン・アルハーキーに話を聞いた。……「この人はカイロで贈り物をばらまいた。宮廷のアミールや王室の役職者で、彼からなにがしかの黄金をもらわなかった者は一人もいない。カイロの住民は彼とその供回りの者たちから、買ったり売ったり、もらったり取ったりして存分に儲けた。彼らはエジプトの金の価値を低めるほど金を交換し、金の価値を下落させた(※B)」。
※A…マムルーク朝における貴賓接待係の役職名。
※B…ウマリーがこの文章を書いたのはムーサー王の巡礼の12年後だったが、その頃にも金の価値はまだ回復していなかったと報告している。
歴史学研究会編「世界史史料2」(岩波書店、2004年)から
14世紀後半に描かれた「カタロニア地図」(写真④)には、右手に黄金を持っているマンサ=ムーサー王が描かれているのでした。
■黄金の都トンブクトゥ
このような繁栄は、ニジェール川流域の支配者がマリ王国からソンガイ帝国に代わっても続きました。中心都市であるトンブクトゥは、サハラ縦断交易とニジェール川が結び合う場所に位置し、「黄金の都」とうたわれました。黒人最古の大学や独特なモスクなどが建てられ、文化の中心地としても隆盛を誇りました。
■大航海時代による動揺
しかし、15世紀ころに大きな変化がアフリカの外からやってきました。いち早く「レコンキスタ」(キリスト教国家による再征服運動)を達成したポルトガルが、アフリカ西海岸の探検に乗り出したのです。その狙いはもちろん、ニジェール川の黄金を獲得することにありました。ムスリムを介した取引ではなく、大西洋岸からのルート開拓を狙ったのです。
この試みはほとんど成功しませんでしたが、重要な副産物を生むことになります。交易相手に必要なものを伝えて用意させるという「注文交易」の方法を持ち込んだこと、そして、金ではなくプランテーションの労働力として必要な黒人奴隷に着目したことでした。
以後ヨーロッパ商人によって1500万人とも2000万人ともいわれる黒人たちが、「注文交易」により対立する黒人勢力によって駆り出されてヨーロッパ商人に売られてゆくという構図が定着し、大西洋貿易の中に組み込まれてゆくことになります。
この結果、サハラ縦断交易は、世界資本主義の「辺境」におけるローカルな貿易へと転落していったのでした。
労働力を引き抜かれて社会的な活力を失っていったこととあいまって、サハラ縦断交易は国際的な交易に関する主役の座を降りていったのです。
■もっと知りたいあなたへ
「サハラ砂漠 塩の道をゆく」
片平孝著(集英社新書ヴィジュアル版、2017年) 1430円