ハイチは世界初の黒人共和国 ナポレオンの騙し討ちが革命に火をつけた
皆さんはハイチという国がどこにあるかご存じですか? 南米大陸の北に位置するカリブ海に「西インド諸島」と呼ばれる島々がありますが、その中のイスパニョーラ島の西3分の1がハイチです(地図)。ここは「世界初の黒人共和国」を樹立した国として有名です。その歴史を振り返ってみましょう。
◇ ◇ ◇
■砂糖生産で巨額の利益
コロンブスが500年前この地を訪れて以後、ヨーロッパ諸国は競ってカリブ海地域やアメリカ大陸を植民地化していきました。イスパニョーラ島は当初スペインが支配しましたが、西側にフランスが入ってきて、両者による分割支配が始まります。そこでは先住民を酷使したサトウキビ=プランテーションが開かれましたが、その過酷な労働により先住民が絶滅すると、今度はアフリカ大陸から黒人奴隷が導入されました。サン=ドマング(聖ドミニコの意味)と呼ばれたフランスの植民地部分では、18世紀後半に世界で消費される砂糖の40%、コーヒーの60%が生産され、フランスに巨額の利益をもたらしていたといいます。
■一斉蜂起
1791年8月14日の夜、ハイチの黒人奴隷たちはカイマン森に集まり、一斉蜂起を誓い合います(写真①)。アフリカに起源を持つヴードゥーの神に祈り、異なる出自の者たちも長い年月をかけて形成されてきたハイチ・クレオール語で意思疎通を図りながら蜂起したのです。ハイチ・クレオール語とはフランス語とアフリカ諸語が混合しながら生み出された言語です。奴隷たちはプランテーションで共同生活を送り、共に労働していたので、フランス人による支配の単位が、そのまま抵抗と反乱の単位にもなりました。
ところで、ハイチの黒人蜂起に先立つ1789年8月26日、フランス革命で人権宣言が出されています。「当然黒人奴隷制も廃止されたに違いない」と考えるあなたは、残念ながら少し人が良すぎるようです。フランスは、先ほど述べた植民地の利益を失いたくなかったため、奴隷制には手をつけませんでした。
■イギリスの“介入”
この状況を変化させたのが、フランスと敵対していたイギリスでした。イギリスがサン=ドマングに侵攻したことで、フランスは植民地の喪失という危機に直面したのです。ここで初めてフランス議会は、1794年2月4日に黒人奴隷制廃止決議をあげます。つまり、黒人奴隷を解放することで、彼らに武器を持たせてイギリスと戦わせようとしたのです。
どうやら私たちは、「フランス人権宣言→奴隷制廃止」という単純な図式で理解するのではなく、黒人奴隷たちの独立運動、そしてイギリス軍の侵攻に伴う植民地喪失の危機、という2つの緊急事態への「やむを得ない選択」と受け止めなくてはいけないようです。
■「黒いジャコバン」
しかし、フランスで独裁者となったナポレオンはその後、植民地に対する奴隷制を完全に復活させてしまいます。「文明というものを持たぬアフリカ黒人に、どうして自由を与えることができようか」というナポレオンの言葉の中に、抜き差し難い差別意識があることが見て取れます。ナポレオンはヨーロッパ諸国との戦争の最中にもかかわらず、数万人もの大軍をハイチに送り込みます。
この時ハイチ革命を推進していたのがトゥサン=ルヴェルチュールでした(写真②)。フランス革命期の急進勢力だったジャコバン派にちなみ、フランスから「黒いジャコバン」と呼ばれたトゥサンは1801年に「フランス領植民地サン=ドマング憲法」を発布して、独立国にも等しい権利を主張していました。ナポレオンの将軍ブリュネは、「話し合い」と騙してトゥサンを逮捕してフランスに送り、1803年に獄死させます。
■ラテンアメリカへの衝撃
ナポレオンによる卑劣な仕打ちは、ハイチの黒人たちの心に火をつけました。ジャングルでゲリラ戦を展開してフランス軍を破り、1804年に独立を勝ち取るのです。そこで、これが各地に与えた影響をまとめておきましょう。
ハイチの憲法では、世界で初めて奴隷制の廃止が明示され、1806年には共和政も採用されます。なお、国名とされたハイチは「山の多い土地」という先住民の言葉に由来するといわれ、黒人だけでなく先住民の尊厳をも引き継いだと考えられます。一方、ハイチの独立によってフランスは貿易の利益を失い、北米大陸の中部にあたるルイジアナをアメリカに売却することになりました。さらに、ラテンアメリカの独立が進んだのです。
ただ、ラテンアメリカの独立と言っても、ハイチの独立→「ラテンアメリカ独立に勇気を与えた」という間違った図式で理解されがちなので注意が必要です。主にスペイン領だったラテンアメリカの独立運動は、ハイチのような黒人奴隷による独立を恐れた「現地生まれの白人」(クリオーリョ)たちが中心となって実現しました。従って、ラテンアメリカ諸国では、白人たちが経営するプランテーションという経済関係はそのままに、黒人たちの権利をほとんど認めないまま、独立国家が実現していくのです。これはハイチ革命による「負の影響」と言えるでしょう。
■国際社会からの冷遇
最後に独立後のハイチを簡単に紹介します。独立への国際的な承認を求めるハイチに対し、世界の現実は冷たいものでした。
ハイチはフランスに特恵関税を認め、10年分の国家歳入に相当する巨額の賠償金を支払うことを条件に独立承認を勝ち取ります。また、アメリカ合衆国やラテンアメリカ諸国はハイチの黒人革命の波及を恐れて断交状態を続けます。国際的に孤立して借金まで抱えたハイチの経済的自立と成長は困難を極めました。写真③は、現在ハイチとドミニカ共和国との国境を示す衛星写真です。緑に覆われたドミニカ共和国に対し、ハイチは「はげ山」が広がる「最貧国」となっています。独立時の国際的な制裁措置がその大本にあることは、言うまでもありません。
■もっと知りたいあなたへ
「ハイチの栄光と苦難 世界初の黒人共和国の行方」
浜忠雄著(刀水書房、2007年) 1760円