「宏池会」結成の裏の目的を初めて明かす 岸田政権は安倍政権よりも「岸政治」の色が濃い
平野貞夫(元参議院議員)
「宏池会は消滅した」と喝破したのは、前川喜平元文科次官だった。
昨年の暮れ、ネット番組「3ジジ放談」で、私が「西山太吉 最後の告白」(集英社新書)のなかで、西山氏が「岸田首相が宏池会ということ自体腹が立つ」と記していることについて尋ねた時の感想だった。前川氏の鋭さに、私は87年の人生に空洞を感じた。
毎日新聞の政治部記者だった西山氏は、かつて宏池会を担当していた。宏池会に対する思い入れもあるはずである。その彼が「岸田首相が宏池会ということ自体腹が立つ」と、岸田首相を批判している。
私と宏池会との関係も深い。初めて初代宏池会会長の池田勇人に会ったのは、昭和35年4月5日の早朝、慶応大学病院の病室で逝去した林譲治元衆院議長の遺体の前だった。池田会長にとって林譲治氏は、吉田茂元首相と共に、宏池会結成で次期政権を狙うポジションにつけてくれた大恩人だった。
私自身にとって吉田・林両先生は、それぞれ先祖が土佐で「国会開設運動」を共にしていた関係だった。その縁もあって私は、衆院事務局に就職したばかりの頃だった。
その時、池田会長が発した「宏池会の政治理念がつづいて発展する限り、日本の議会政治は健全だ」という言葉が耳に残っている。
それから13年たった昭和48年5月、第58代の衆院議長に就任したのが、第2代宏池会会長として活躍した前尾繁三郎先生だった。前尾衆院議長の秘書に任命されたのが、私だった。昭和51年12月の任期満了まで3年8カ月の任務だった。前尾先生には子どもがなく、昭和56年7月に逝去するまで薫陶を受けた。
宏池会の第2代会長だった前尾先生は、総理総裁を目指し、佐藤政権に挑戦したが、過度な金権政治に嫌気が差して健康状態が悪化する。宏池会の会長を譲る準備中に、「角福戦争」に関連して、大平グループがクーデターを起こし、前尾会長を追い出してしまった。