「私、まだ終わってない」出世は現場からのリストラだ…50前、あがく女が縋った“男との復縁”という選択【谷 綾女・45歳#2】
【渋谷の女・谷 綾女45歳#2】
【何者でもない、惑う女たちー小説ー】
中堅出版社に勤める綾女。昇進の辞令があったものの、現場から離れる立場になったことに落ち込む。向かった先は渋谷にある元恋人・崇が経営するバーだった。20年ぶりにもかかわらず、気兼ねない態度の彼に胸をときめかせていると、結婚していたはずの彼の指にその証はなく……。【前回はこちら】
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元恋人との埋め合わせたい20年
渋谷は夜の10時。
“Bar iris”には私のように『年内閉店のお知らせ』のメールを見て顔を出す人が多く、入れ替わり立ち代わり、お客さんがやってきていた。
ワンオペの崇は忙しそう。しばらく放置されていたけど、あの頃が思い出されてむしろ心地が良かった。
――こうやって、店の隅でずっと朝の閉店まで居座っていたなぁ…。
同じように暇を持て余していたニット帽男は、執拗に絡んできた。いつもの私ならあしらうところだけど、話は弾んだ。こっちとしても、埋め合わせたい20年があったから。
「マスターは、小さいお子さんいるんだよね」
「小さい子? もう高校生くらいのはずだよ」
「あ、そうか、成長しているのか…」
「全然会っていないようだけど」
男に酒をごちそうしながら、気にしないそぶりで気になることを聞きだす。彼によると、崇が離婚したのは5年前だという。理由の詳細は不明。性格の不一致だろうと男は言う。
不思議だったのが、これだけ尋ねたにもかかわらず、男が私の素性を聞き返さないことだった。そのワケはしばらくして判明した。これで最後だとウォッカショットを一気にあおったあと、男は立ち上がってコートを羽織りながら言った。
「あなた、アヤメさんでしょ?」
「――え?」
ろれつの回らぬ口調だったが、ズバリ正解だった。
「この店の名前の由来を聞いたことがあったんだ。アイリスってアヤメって意味なんだよね。きみの話はよく聞いていたんだよ」
とっくに、彼の元カノだと気づかれていた。目の前の男と同じ酒を飲んだように、一気に体が熱くなる。
動揺しているうちに、いつの間にかニット帽の男は消えていた。
あの頃より厚くなった背中が見えた
お店の客も、いつの間にかまばらになって、そして最後の客がいなくなった。崇は、カウンターの奥まった場所にある流し台で、ひとり、グラスを洗っている。あの頃よりも、厚くなった背中が見えた。彼は私の視線に気づいたようだ。
なにげなく、目が合う。
「な、なんか…がっしりしたよね。鍛えているの?」
「健康を考えるトシだもんな」
「そういえば、いつも一緒に行っていた裏のカフェ、チョコザップになっていたのびっくりしちゃった」
「カフェが閉店したのは、10年前になるかな。ちなみに俺、今、そのチョコザップに通ってる」
「やばっ」
「やばっ、ってどっちの意味だよ」
ふたりきりの店内。終電が近づくけど…
ふたりきりの店内。たわいもない話で数十分。この時間がいつまでも続いて欲しいと思った。
でも、確実に終電の足音は近づいてくる。
「ちょっとお手洗い」
お手洗いはビル共有。一度外に出る必要がある。私は重い扉を開け、夜風にあたった。感情を冷やして、暴走しそうな車にブレーキをかける。
「あれ…?」
目に入ってきたのは、店の前の<CLOSED>となった看板だった。
この店は、オールナイト営業だったはず。思い返せば、あんなにひっきりなしに入店があったのに、しばらくお客さんは来ていない。
私は閉じた扉をまた開けた。
「どうした? 誰か入ってた?」
カウンターの外に出て、テーブルを拭いていた男の背中に、私は思わず身を委ねた。
ブレーキはバカになる。
上司との恋愛を思い出す。あの辞令はもしや…
薄い壁の向こうから聞こえる、恋人たちの愛し合う声で目が覚めた。
傍らには、“こと”を終えて上下する昔の男の胸元--「鍛えている」と言っていたものの、長い年月の流れを感じさせる、相応の張りと手ざわりだった。だけど、それさえも愛おしく思えた。
一晩明けても、魔法はさめていなかった。指先で彼の輪郭をなぞりながら、溶け合った記憶をたどる。
昨日の晩。すぐ店を閉めたあとは、崇がよく行くという、百軒店のバーへ。そして、いつのまにか円山町の小さな部屋へたどり着いた。
誰かと同じベッドで寝るのは5年ぶりだった。妻子ある上司と交際していた時以来だ。その上司は、今や会社の取締役である。
――あ、もしかしたら、あの辞令は……。
あの人のことだから、現場でくすぶっている私を良かれと管理職へと引き上げようとしてくれたのかもしれない。
だけど、私の中では時期尚早だ。出世と言う名の、現場からのリストラである。私はまだまだ途中の人でいたい。まだ、その先には行きたくない。
自分のことしか考えない、似た者同士だ
「どうしたの?」
大きな私のため息が、彼の顔にかかったようだ。なにも答えず、なにもかも忘れようと、腕の中に顔をうずめる。だけど、やっぱり不安になる。
「…これから、どうするの?」
「まだ日はあるけど、居抜きのいい場所を常連さんに紹介されたんだ。そこでまたなんかやろうかなって思ってる」
ホテルを出たすぐの後のことを聞いたつもりだったが、崇はなぜか近い未来の自分語りをつらつらとはじめた。
あいかわらず「らしい」な、と思った。自分目線でしか想像が及ばない性格なのは変わってない。元奥さんが離れていったのもそんなところだろう。
私もそうだったから。
だけど、そういう所が大好きだった。自分のことしか考えない人間、似た者同士なのだ。
わたしたちの別れの理由は、私の仕事が一番楽しい時に結婚を申し込まれたこと。彼は、念願の店を出して、軌道に乗った後に結婚するライフプランを組んでいたという。
彼のことは大好きだったけど、私は自分がもっと好きだった。一旦、別れという体裁をとって関係を見つめなおそうということだったが、なぜか3カ月後、結婚の知らせが届いた。
結局、彼は自分のしいたレールの上で共に走ってくれる人ならだれでもよかったのだ。
それ以来、崇のことは脳内から消した。だけど、こんなにフィーリングが合って、大好きだった人は、今の人生思い返してみてもいない。
だからこそ、今こうやって、再び重なっている。
「――今夜、また会える?」
「今夜って、今夜?」
「もちろん。ちょうどSweetSetのトーク&ライブがロフト9であるんだ」
SweetSet、とは、25年前にデビューした男女2人組の音楽ユニットだ。あのころ、よくふたりでライブに行っていた。ジャンルとしてはいわゆるネオ渋谷系。
「懐かしい…。今でも活動してるんだ」
「解散した時期あったみたいだけどね。最近活動再開したみたい」
その偶然に、何かの糸がつながったような気がしてならない。
「行く! ライブなんて久しぶり」
「よかった。俺も行きたかったんだよ」
昨日も会って、今日も会う。スケジュールを見ずに即答する。
私、まだまだ終わってない
年を重ねるたびに、フットワークは重くなり、プライベートの予定も体力の余裕や損得勘定がないと動けなくなっている。
だけど、今の私の頭にそれはない。学生の頃のように、まっすぐ感覚でうごいている自分に気づく。
――私、まだまだあのころのまま、終わってない。
いまだに、坂の途中にいる。
想いを噛みしめ、崇を上目遣いで見つめた。
【#3へつづく:「この初老の女が私?」映像に映った“残酷な姿”に凍り付く。もう若くない…悟った女が辿りついた答え】
(ミドリマチ/作家・ライター)


















