井伊直政(1)15歳の時、家康に出仕した「新参者」だった
ぼくは、青年・直虎は、元亀3(1572)年に起きた武田信玄の遠江侵攻(三方ケ原の戦いに帰結する、信玄の最後の西上作戦というヤツです)を受けて討ち死にした、と推測しています。
まあ、それはそれとして。その後、リーダーを失った井伊家の人々は苦しい生活を強いられますが、なんとか堪え忍び、虎松を徳川家康のもとに出仕させます。天正3(1575)年、虎松は15歳でした。このとき彼は、名を万千代に改めています。
「柳営秘鑑」という書物は、榊原氏や鳥居氏と並び、「三河岡崎御譜代」(「三河安祥譜代」の次に古い)として井伊家を記載しています。
でもこれは明らかにおかしい。直政が仕えたときの家康は、すでに遠江の浜松城主ですから。「柳営秘鑑」は井伊家に忖度して、井伊家は昔から、徳川家の従者だった、としたのでしょう。浜松譜代というカテゴリーはないので、「井伊家は駿府譜代」、すなわちわりと新参の家である、とすべきです。
天正10(1582)年、万千代は22歳で元服し、直政と名乗りました。同時に抜擢を受け、家康の旗本部隊の侍大将に任じられます。この役はかつて本多忠勝、榊原康政が兵200ほどを率いて務めたポスト。帝国陸軍なら中隊長、肩書は大尉といったところでしょう。前に榊原康政のところで説明しましたが、ここでの働きの善し悪しによって、槍働きのみの「武辺」で終わるか、政治や外交まで受け持つ「武将」になるかが決まります。

















