帝銀事件・平沢貞通元死刑囚支援者「いつも和服で髪は整え、身だしなみにも気をつかっていた」
平沢貞通元死刑囚支援者・細川次郎さん
1948年1月、東京都の職員を装った男が帝国銀行椎名町支店で行員ら16人をだまして毒物を飲ませ12人を死なせたうえ、現金と小切手を奪った「帝銀事件」。無実を訴え続けた末、87年5月に病死した平沢貞通元死刑囚(享年95)については、冤罪説が根強い。彼は一体どんな人物だったのか。中学生の頃から8年にわたって交流した支援者の細川次郎さん(57)に聞いた。
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もともとは著名な画家だった平沢元死刑囚は、獄中で多数の絵を描いたことで知られる。細川さんとの交流も絵をきっかけに始まった。
「中2だった79年1月、神田(東京)で開かれた貞通さんの絵の個展に足をはこび、個展を主催した石井敏夫さんら支援者の方々と親しくなりました。その後も横浜や小田原で開かれた個展に行き、折に触れて貞通さんに手紙を出していたら、9月に初めて返事が届いたのです」
富士山の絵が直筆で描かれたその返事のハガキには、「早く父の墓参りに行きたい」と無実を訴える文言が書かれていた。こうして細川さんは平沢元死刑囚と文通するように。中学を卒業した春、自宅のある東京から平沢元死刑囚が収容されていた宮城刑務所まで訪ね、初めて面会した。
「貞通さんは当時88歳。顔はしわだらけで、髪も真っ白で、手も枯れ木のように細かったです。それ以前に見た写真は50代頃のものばかりだったので、『こんなにおじいさんになっちゃったのか……』と、ある意味衝撃でした」
人間としての尊厳は守られていた獄中生活
細川さんが「毎日どんな生活をしているんですか?」と聞くと、平沢元死刑囚は「朝は7時に起床して、食事をして歯を磨き、絵を描くのは午後からですね」と答えたが、前歯が全部ないため、話は聞き取りにくかったという。
ただ、足腰や頭はしっかりしていたようだ。この後も足しげく面会に訪れた細川さんはこう振り返る。
「貞通さんは面会室に来る時も、部屋に戻る時も杖などは使わず、自分の足で歩けていました。面会中、たまに耳に手をあて、『は?』と聞き返してきましたが、私が大きな声で話せば、ちゃんと聞こえていました。服装はいつも和服で、髪は整えていて、身だしなみにも気をつかっているようでした」
48年に逮捕された平沢元死刑囚は、当時すでに獄中生活が30年を超えていた。しかし、投げやりにならず、丁寧に生きていたことがうかがえる。
1回の面会時間は10分程度。多くのことは話せない中、細川さんは平沢元死刑囚がずっと獄中にいるため、気持ちが和むような話をしていたという。
「たとえば、高校の修学旅行の際、彦根城の天守閣にのぼって見た琵琶湖が海みたいだったことを話したら、貞通さんも同調して、『ああ、海みたいでした』と言っていたのを覚えています。隅田川の花火大会の話をした際には、絞り出すような声で『ああ、見たいなあ』と言っていました」
冤罪説が根強いこともあり、平沢元死刑囚には悲劇的な印象がつきまとう。実際は「普通のおじいさん」の雰囲気も持ち合わせていたようだ。
そんな平沢元死刑囚に対し、刑務所の職員たちも好意的に接していたという。
「冬は面会室にストーブが置いてあり、貞通さんが面会室を出ると、出口の向こうで待っていた職員が上着を着せてあげたりもしていました。部屋では、テレビで大相撲も見ていたそうです」
細川さんは差し入れ所で受付の女性が「平沢さん」と言っていたのを聞いたこともあるという。平沢元死刑囚にとって獄中生活は楽なものではなかったはずだが、人間としての尊厳は守られていたようだ。
根強い冤罪説の根拠
平沢元死刑囚については、冤罪説が根強い。根拠としては「犯人は毒物の扱いに慣れており、平沢元死刑囚のような一般人には無理な犯行だった」とか「生存被害者の中に『平沢は犯人ではない』と言っている人がいる」など、さまざまなことが指摘されてきた。
収容先の宮城刑務所で面会を重ねた細川さんによると、本人も再審で無罪を勝ち取ることに強い意欲を持っていたという。
「面会中、事件のことを話すと、貞通さんは身を乗り出してきました。例えば、『青酸カリじゃね、(被害者たちが毒物を飲んでから)そんな長時間、立っていられないんですよぉ』と強い口調で言ったことがありました」
裁判では、犯人が使った毒物は青酸カリだとされているが、実際は効き目が遅いアセトンシアノヒドリンで、それは平沢元死刑囚が入手不能だったという説がある。本人もその説を信じていたわけだ。
平沢元死刑囚が細川さんとの面会中、特定の捜査官や裁判官を批判することはなかったという。だが、自分を逮捕した捜査官の一人で、「警視庁の名刑事」と呼ばれた平塚八兵衛氏には特別な思いを有していたようだ。
「平塚“恥”兵衛だ」「嘘ばかり書いている!」
「平塚さんが以前、週刊新潮で『八兵衛捕物帳』という連載をしていて、帝銀事件のことを書いたことがありました。最も親しかった支援者の石井敏夫さんがそれを貞通さんに差し入れたら、誌面にボールペンでびっしりと書き込みをして、送り返してきたそうです。たとえば、平塚さんが記事で、『寿司屋に平沢を呼びよせて、お茶を出して指紋をとった』と書いたことに対し、貞通さんは『平沢の指紋と、帝銀に残っていた指紋は違うではないか!』と書いていたとか。『平塚“鬼”兵衛だ』『平塚“恥”兵衛だ』『嘘ばかり書いている!』などと言って怒っていたそうです」
こういう気迫があったから長い獄中生活で屈せず、無実を訴え続けられたのだろう。
93歳になった85年、平沢元死刑囚は宮城刑務所から八王子医療刑務所に移送された。健康面への配慮からのようだが、八王子医療刑務所は外部交通の制限が厳しく、細川さんは平沢元死刑囚と面会や文通ができなくなった。再会したのは2年後、平沢元死刑囚が95歳で亡くなった時だった。
久しぶりに対面した棺桶の中の亡骸は、黄疸が出ていて、真っ黄色だったが、「あ、あのおじいちゃんだ」と安心する気持ちになったという。
「手は胸の前で組まれていました。この手、この指で、絵を描き続けていたんだな、と思いました」
結局、生前に再審無罪の願いはかなわなかった平沢元死刑囚。だが今も遺族が思いを受け継ぎ、第20次再審請求中だ。交流を始めた頃は中学生だった細川さんは現在57歳で、生き証人のような立場になった。
「私が貞通さんを直接知る一番若い世代なので、あと50年くらいはなんとか長生きして、貞通さんの再審無罪の実現を見届けたいと思います。それくらい経てば、今なら誰も考えないような科学的手法も出てきて、貞通さんの無実が誰の目にも明らかな証拠が出る可能性もあると思っています」