中山雅史氏〈3〉もし日本代表の優勝が決まったら──。悔しくもありますね。なぜそこに自分はいられないのか、と
中山雅史さん(元日本代表FW/58歳)
(【中編】からつづく)
僕にとって日本代表という場所は、特別に神聖なところです。そして最も幸せな場所でした。
国を背負って戦い、日本中の人々が後押ししてくれる。そんな素晴らしい舞台に名を連ねていたいと願うのは、サッカー選手として当然の欲求です。
最近では、自分から代表引退を宣言する選手もいますが、僕には到底理解できません。
「もったいないじゃないか! 呼んでくれるならどこまででも行くよ!」というのが僕の本音です。 どんな小さな役割でもいい、たとえピッチに立てなくても、チームの勝利のために尽くせることは無限にある。それが日本代表という場所の重みだと思っています。
僕の日本代表生活を振り返ると、常に「自分の下手さ」を認めることから始まりました。
初めて先発した1992年5月31日のアルゼンチン戦は、自分なりに動けた感覚はありましたが、それがダメダメな自分をごまかした激甘な自己評価でした。
実際オフト監督の評価は不合格だったのでしょう。次の試合ではベンチに下げられました。
そこですねたりせず、自分を客観視しながら足りないものをどう埋めるのか、真剣に考える。矢印を常に自分に向け、レベルアップし続けなければ「この場所にいられなくなる」という危機感こそが僕の原動力でした。
1993年10月28日の「ドーハの悲劇」の瞬間を僕はベンチから見ていました。その悔しい思いを晴らしたいと思った1994年、僕は鼠径(そけい)ヘルニアを患ってしまい、プールを歩くリハビリが精一杯という状態でした。
ここから何とか這い上がり、食らいつこうとしていた中、一発屋で終わりたくないという強い思いがありました。
ただ怪我を治すだけではなく、より強い自分になって、さらにレベルアップした自分になって戻らなければ、自分のポジションは守れない──。
そうやって積み重ねてきた結果が、1998年のW杯フランス大会出場に繋がったと今さらながら感じています。
そのフランス大会のアジア最終予選・最終試合のカザフスタン戦(1997年11月18日)に追加招集された時の緊張感は、今でも決して忘れられません。
当時のメディアからは「中山待望論」が叫ばれてはいましたが、実際に招集されると僕自身、自分の実力と周囲の期待の大きさとのギャップに恐怖心すら感じていました。
「もし、ここで結果を出せなければ僕のサッカー人生は終わる」。そんな崖っぷちの状況下、自分にできることは「とにかく走ること」だけでした。 代表に召集されてから試合までの一週間は食事もノドを通らないし、目がくぼんで「減量に苦しんだ(漫画「あしたのジョー」)力石徹みたい」と言われるほど追い詰められていました。
それでも、あのカザフスタン戦で名波浩からのFKを相手ごと押し込んで復帰ゴールを決めることができました。僕の執念が実り、ボールに乗り移ったのです。
そして1998年6月26日、ワールドカップ・フランス大会の最終戦、ジャマイカ戦で決めた日本代表のW杯初ゴールの瞬間がやって来ました。
呂比須ワグナーが折り返した(シュートに見えましたが……)ボールに何とか反応し、体ごと押し込んだ得点です。
あのゴールで後に多くの人から声をかけてもらうようになるのですが、僕にとっては「どうにかして爪痕を残したい」という必死の思いが結実しただけに過ぎません。
2002年の日韓共催大会に招集された時、僕は34歳になっていました。
秋田豊とともにほぼバックアップとしての役割を期待されての招集でした。10番という背番号を渡された時はさすがに驚きました。
かつての戦友たちと最高の酒を酌み交わしたい
僕の持論なのですが、チームの団結力を高めるものとして、ベンチメンバーたちが「どれだけ強い意識を持ってチームを支えられるか?」。これが大きな要素となります。
試合に出ているメンバーは調整に専念すればいいが、出られないメンバーは腐ることなく、常に「俺もいけるぞ!」という状態を維持しなければならない。
僕と秋田が練習で先頭に立って声を出し、一番きついメニューをこなす。それを見た若い選手たちが「ベテランがあれだけやっているんだから、俺たちもやらなきゃいけない」と思わせる。それが僕に与えられた10番の役割と解釈しました。
今の日本代表を見ていると私たちの時代とは隔世の感があります。
選手たちは当たり前のように欧州のトップリーグで戦い、森保監督は堂々と「ワールドカップ優勝」を掲げている。出ることさえ夢物語だった私たちの時代からすれば、信じられないような進化です。
でも、どれだけレベルが上がったとしても、最後に勝負を分けるのは「周到な準備」です。
2026年大会は、移動も時差も過酷な環境になります。どこまで最高の準備を徹底できるか。
僕は、日本代表が本当にワールドカップで優勝したら、この国のスポーツ文化が根底からガラッと変わると信じています。
かつて日本サッカー協会は「2050年までのワールドカップ優勝」という目標を掲げました。
簡単なことではないということは重々承知していますが、それが現実的に射程圏内に入ってきている気もします。
今の選手たちには、怪我すらも自分を強化するための「充電期間」と捉えるだけの知性があります。頼もしい限りです。
一試合一試合、90分間のワンプレーをどれだけ集中して戦えるか。その連続性が優勝へと導いてくれるはずです。
今の代表選手たちが見せる「高い志」、それをガッチリと支える「緻密な準備」があれば、必ずや新しい歴史を作ってくれると確信しています。
もし優勝が決まったら──。最高ですけど悔しくもありますね。なぜそこに自分はいられないのか、と。
そんな馬鹿なことを考えながら、かつての戦友たちと最高の酒を酌み交わしたい。その日が来ることを信じ、僕はこれからも日本代表のサポーターであり続けたいと思っています。(この項おわり)
(聞き手=森雅史/日本蹴球合同会社 絹見誠司/日刊ゲンダイ)
▽中山雅史(なかやま・まさし) 1967年生まれ。静岡・岡部町(現藤枝市)出身。藤枝東高から筑波大。卒業後にヤマハ(現磐田)に入社。陽気なキャラクターとJリーグ創設年の93年秋のW杯最終予選での活躍で全国区人気を博した。94年、磐田のJリーグ昇格によってJリーグデビュー。スポーツヘルニアに悩まされたが、95年以降はエースFWとして活躍。98年、00年Jリーグ得点王。97年のJ初制覇の原動力となった。札幌、JFL沼津を経て磐田のコーチ、沼津の監督など歴任。25年年末に沼津のCROに就任した。90年に日本代表デビュー。94年W杯予選で「ドーハの悲劇」を経験する。98年W杯のジャマイカ戦で得点を奪い、日本人W杯初ゴーラーとなった。02年日韓W杯メンバー入りして本大会のロシア戦に出場。「ドーハの悲劇」「フランスW杯」「日韓W杯」を経験した唯一の選手となった。


















