大正ロマンの裏にある摩擦 『はいからさんが通る』(新装版全6巻)大和和紀作
『はいからさんが通る』(新装版全6巻) 大和和紀作
★あらすじ
大正時代の東京を舞台に、快活で自由奔放な少女・花村紅緒が、時代の慣習や価値観にあらがいながら成長していく物語である。許婚として現れた少尉・伊集院忍との出会いは、紅緒の人生を大きく動かす。恋愛や結婚に縛られず、自立した生き方を模索する紅緒は、新聞社で働き、社会の現実と向き合っていく。しかし戦争の影は次第に濃くなり、忍との別れや喪失を経験することになる。明るさと行動力を失わない紅緒の姿を通して、女性の自立、恋と時代の残酷さが描かれる、大正ロマンと少女漫画の精神を象徴する名作。
大正ロマンという言葉でくくれば色彩はたしかに整う。木村屋のあんぱん。袴の裾。洋館の窓の光。だが、その包み紙を剥がすと、内側ではずっと摩擦が起きている。『はいからさんが通る』が描いているのは、可愛い恋の追いかけっこではない。近代という未完成の床板の上で、ひとりの女が「自分で選ぶ」という行為を、何度も転びながら覚えていく、その体温である。
花村紅緒は、跳ねっ返りのヒロインとして語られがちだ。竹刀と槍。酒乱。喧嘩。おてんば。だが彼女の本質は反抗心ではない。紅緒は時代に歯向かっているのではなく、変わりつつある時代に追いつこうとして、何度も足を取られている。結婚。家。職業。恋愛。どれにも正解がない。正解がないのに、周囲は「正しい形」を先に押しつけてくる。紅緒はその圧を、勢いで蹴り返そうとして失敗する。失敗が笑いになり、笑いが湿っていく。そこがこの作品の強さだ。
本作が手堅いのは、その自由を決して美談にしきらない点にある。紅緒は空回りする。突っ走る。周囲を巻き込む。迷惑もかける。自立を口にしながら、他人の助けを必要とする。経済という現実に何度も殴られる。冗談社に入ってからの紅緒は、編集長にしごかれ、取材に走り、紙の締め切りに追い立てられる。ここで初めて、自由が「解放」ではなく「責任と不安の引き受け」だとわかってくる。口で言う自由と、胃のあたりに沈む自由は別物だ。
この漫画の温度を決めているのは、恋愛の甘さと同じだけ、制度の冷たさが描かれていることだ。許婚。華族。軍。体面。大正デモクラシーという言葉が踊っても、個人の選択は軽くない。むしろ重い。紅緒が「自分で決めたい」と言うたびに、別の誰かが「おまえのためだ」と言って道を塞ぐ。悪意はない。だから厄介になる。善意の鎖。これが一番外しにくい。
伊集院忍少尉も、都合のいい理想像ではない。聡明で、朗らかで、規律を守る。紅緒をからかい、守り、時に諭す。その正しさは、ある場面では紅緒の背中を支え、別の場面では紅緒の喉元に手を置く。ここで描かれているのは悪意のない抑圧である。互いを思いやっているからこそ、すれ違いは深くなる。恋愛が万能の救済にならないことを、この作品はちゃんと知っている。
さらに残酷なのは、恋が最も熱くなった瞬間に、時代がそれを踏み潰しにくることだ。シベリア出兵。戦死の報。消息不明。これは恋愛漫画の「試練」という言葉で片づけるには、現実のにおいが濃すぎる。大正は華やかに見えるが、外は寒い。国家は人を攫う。新聞が噂を運ぶ。家が人を縛る。紅緒は未亡人として伊集院家を支える決心をする。ここで彼女の背筋が変わる。少女漫画のはずなのに、空気が一段冷える。湿度が上がる。
物語の面白さを担うのは、脇役たちの体温だ。蘭丸のいじらしさは、単なる当て馬では終わらない。環の硬質さは、正義感だけではなく、同じ時代の女の焦燥として立っている。鬼島の荒さは、軍隊の陰がそのまま皮膚に残ったものだ。冬星の皮肉と優しさは、男が「女」を信じられない時代の屈折だ。誰もが、時代の粉を吸って咳をしている。その咳の音が、ページの端に残る。
そして、この漫画は軽い。テンポがいい。ギャグが入る。作中のサブカルチャー引用やメタの遊びも、紙の上では生きている。映像化された版では尺の都合で省略されがちな道筋があるが、原作はそこを歩く。歩く距離があるから、紅緒の「立ち上がり」が本物になる。笑っているのに、胸の底が冷える。その感覚は、紙で読むとよくわかる。
大正という時代設定は装飾ではない。女性の社会進出が語られ始める一方で、制度は追いつかない。理想は先へ走る。現実は足首を掴む。『はいからさんが通る』は、その矛盾をロマンで覆わない。恋と仕事、理想と現実が同時に成立しない瞬間を何度も描くことで、時代の床の不安定さを浮かび上がらせる。
それでも物語は、絶望へ沈みきらない。紅緒は転ぶ。起きる。転ぶ。起きる。そのたびに、考え方がわずかに変わる。拒んでいたものを吟味し、信じていた言葉を疑い始める。成長とは理想を捨てることではない。理想と現実の距離を測り直すことだ。この漫画はそれを、声高にではなく、笑いと挫折の反復で教える。
本作が今も読み継がれる理由は、ロマンの完成度だけにない。「自分らしく生きる」という言葉がまだ輪郭を持たなかった時代に、その困難さを正面から描いたからだ。自由を望むことは簡単だ。自由を続けることは難しい。紅緒は完成形の女性ではない。むしろ、時代の真ん中で迷い続けた存在である。だから届く。私たちもまた、完成しない自由の途中を生きている。
読み終えると、紅緒の足音だけが残る。はいからさんのお通りだい、と誰かがはやす。けれど、その足音は軽くない。板の間を踏む音だ。石畳を蹴る音だ。揺れる時代の上で、選ぶために歩く音だ。恋愛漫画の形を借りた、近代日本の「未完成な自立」の記録。その湿った熱さが、この作品を今でも新しくしている。
(講談社 kindle版 605円~)


















