著者のコラム一覧
増田俊也小説家

1965年、愛知県生まれ。小説家。北海道大学中退。中日新聞社時代の2006年「シャトゥーン ヒグマの森」でこのミステリーがすごい!大賞優秀賞を受賞してデビュー。12年「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」で大宅壮一賞と新潮ドキュメント賞をダブル受賞。3月に上梓した「警察官の心臓」(講談社)が発売中。現在、拓殖大学客員教授。

恋愛は市場になる 『妻をめとらば』(新装版全15巻)柳沢きみお作

公開日: 更新日:

『妻をめとらば』(新装版全15巻)柳沢きみお作 

 
★あらすじ
 結婚という制度と日常を、軽妙なユーモアで描くホームコメディーである。平凡な会社員の主人公は、結婚を機に、恋愛とは別の現実--家事分担、金銭感覚、親族付き合い、価値観のズレ--と向き合うことになる。妻との会話や小さな衝突は、派手な事件にはならないが、生活の核心を突く。理想と現実の落差を笑いに変えながら、夫婦とは何か、共に暮らすとはどういうことかを、肩の力を抜いて描いた、日常観察型の結婚漫画。


 柳沢きみおがこの漫画で描いたのは、結婚という制度の内部で、人がどれほど静かに摩耗していくか、その進行である。声高な不幸も、劇的な破綻もない。朝は来る。会社へ行く。帰りに酒を飲む。電話が鳴る。約束をする。約束を破る。生活は破綻しない。ただ、その過程で自分の輪郭だけが少しずつ薄れていく。読後に残るのは、その薄まり方の手触りだ。

 柳沢作品に通底しているのは、「決められない人間」を中心に据える視線である。『妻をめとらば』の高根沢八一も例外ではない。彼は最後まで、はっきりと1人の女性を選び切れない。優柔不断。煮え切らない。読者の側が苛立つほど、前に出ない。だが、その苛立ちこそが、この作品の核へ触れてしまっている。

 八一は誠実さを欠いているわけではない。誰かを傷つけたいわけでもない。無責任に生きたいわけでもない。むしろ逆だ。誰も失いたくない。誰も否定したくない。その欲が強すぎる。だから選べない。選ぶとは、他を切り捨てることだという事実を、八一は理解している。理解が深いほど人は動けなくなる。頭の良さが足を縛る。柳沢はそこを甘くしない。

 ここで描かれているのは、恋愛の失敗談ではない。判断不能に陥った主体の姿である。どの選択肢にも理由があり、どの関係にも未練が残る。だから1つを選び取るという行為は、論理的な最適解の採択ではなく、暴力的な決断になる。切る。捨てる。見なかったことにする。その暴力を引き受ける覚悟がないまま、八一は社会人として走り出してしまった。

 しかも舞台が証券会社であることが効いている。数字。ノルマ。支店。課長。次長。終電。残業。バブル期の「いけいけドンドン」の熱気が背景にあるのに、八一の内側は湿っている。汗ではない。迷いの湿気だ。仕事は前へ進む。相場は動く。だが人間の決断だけが動かない。そのねじれが、作品全体の空気を重くする。

 柳沢きみおは、この優柔不断さを笑いに回収しない。成長物語にも仕立てない。最後に大人の決断が用意されることもない。むしろ決断できないまま時間だけが過ぎていく。その経過を淡々と描き続ける。あらゆる人間の人生というものは、多かれ少なかれ何らかの拘泥や曲折に迷い込んでいることを、作者は知っている。救済を置かないことが冷酷なのではない。救済がないのが現実だというだけだ。

 女性たちも単純な被害者としては描かれない。彼女たちは「選ばれる側」にとどまらず、それぞれに判断と計算を持っている。八一の曖昧さを理解したうえで関係を続ける者もいる。見切って次へ行く者もいる。恋愛という名の市場で、全員が自分の値札を見ている。だからこそ息苦しい。誰か一人が悪いわけではない。構造が悪い。構造のなかで、人はみな小さくずるくなる。

 男性像もまた柳沢らしく凡庸だ。暴力も激情もない。「ちゃんとした男」であろうとする。「ちゃんとしている」ことが、かえって何も決めない理由になる。社会的に正しい選択肢が複数並ぶとき、人は最も動けなくなる。結婚相談所。ホステス。社内恋愛。同期の噂。親の目。これらが全部「正しさ」の形をしているから、八一は動けない。正しさの渋滞である。

 この漫画が描いているのは、愛の崩壊ではない。選択の不能である。会話が減る。関係が曖昧なまま維持される。宙づりの状態が長く続く。結婚という制度にそれが結びついたとき、逃げ場のない重さを持ち始める。柳沢の筆致は、「何も起きないまま消耗していく時間」を、読者に体験させる。鍋が煮えるように、ゆっくりと。気づいたときには水位が下がっている。

 終盤の倒れ方が象徴的だ。理想の相手を見つけたかもしれない、その瞬間に体が先に折れる。恋の勝利でも、敗北でもない。労働の疲労が人間を止める。玄関のドアの向こうに手が伸びているだけの終わり方は、妙に現実的だ。死んだかもしれない。助かったかもしれない。読者はどちらにも寄れない。八一の人生と同じように、宙づりで終わる。

 この作品が重たいのは、主人公の弱さを断罪しない点にある。決められないことは欠点だ。だが同時に、人間的でもある。強い意志や明確な選択だけが人生を前に進めているわけではない。むしろ多くの人は、選べないまま進み、進んでしまった場所で「こうだったのか」と遅れて理解する。その遅れを、柳沢はそのまま描く。

 『妻をめとらば』は結婚を否定する漫画ではない。結婚に救いを見いだす物語でもない。選べなかったこと。決めきれなかったこと。その積み重ねが人生になる。そういう現実を正面から描いた点に、この作品の真価がある。八一に覚える苛立ちは、そのまま読者自身の姿でもある。だから静かで、読みづらく、そして忘れがたい。結婚のなかで、人生のなかで、人が決められないまま空費してしまう時間の滑稽さと重さを、これほど誠実に積み上げた漫画はない。
(スマートゲート kindle版 1円~)

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