著者のコラム一覧
増田俊也小説家

1965年、愛知県生まれ。小説家。北海道大学中退。中日新聞社時代の2006年「シャトゥーン ヒグマの森」でこのミステリーがすごい!大賞優秀賞を受賞してデビュー。12年「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」で大宅壮一賞と新潮ドキュメント賞をダブル受賞。3月に上梓した「警察官の心臓」(講談社)が発売中。現在、拓殖大学客員教授。

終末ではなく「学校崩壊」の物語 『漂流教室』(文庫版全6巻) 楳図かずお作 

公開日: 更新日:

『漂流教室』(文庫版全6巻) 楳図かずお作  

★あらすじ
 突然の大災害によって小学校ごと荒廃した未来世界へ飛ばされた子どもたちが、極限状況で生き延びようとする物語である。水も食料も乏しい異界で、子どもたちは怪物や自然の脅威だけでなく、大人不在の集団が生む恐怖と暴力に直面する。一方、現代に残された親たちは、わが子を救おうと狂気と絶望の中でもがき続ける。文明が失われた世界であらわになる人間の本性、希望と利己心のせめぎ合いが、子どもと大人双方の視点から描かれる。生きるとは何か、守るとは何かを容赦なく突きつける、戦慄のサバイバルホラー漫画。


 この『漂流教室』を終末SFと呼ぶのは、便利すぎる。怪奇漫画と棚に入れるのも、逃げが混じる。楳図かずおがこの作品でやったのは、「世界が終わったらどうなるか」ではない。「学校」という、人間社会のいちばん薄い膜が破れた瞬間に、何が流れ出るかを、子どもたちに背負わせて見せた。しかも、見せ場のためにではなく、記録としてやった。冷たい。湿っている。読後に残るのは、砂ではなく汗の匂いだ。

 始まりは乱暴に速い。揺れる。止まる。外が変わっている。教師が倒れていく。説明はほとんどない。理屈を与えないまま、校舎だけが未来の荒野に置かれる。楳図は親切をしない。親切にする暇がないのが、災害というものだからだ。恐怖は怪物より先に来る。水がない。パンが減る。トイレが詰まる。寝床が臭う。体育館の床が冷える。昼と夜の温度差で喉が焼ける。そういう、地味で逃げ場のない現実が、子どもの集団の関節を少しずつ外していく。

 ここで最初に壊れるのは校舎ではない。言葉だ。

「落ち着け」「話し合え」「順番を守れ」

 正しい。正しすぎる。だから軽い。空腹と恐怖の前では、正しさは紙のように薄い。教師たちは無能ではない。悪でもない。ただ、平時のルールを非常時に持ち込んでしまう。そのズレが致命傷になる。教育という装置のもろさは、教師の人格のもろさではなく、状況の圧力で露出する。楳図はそこを外さない。だから苦い。

 翔が総理になる。子どもたちが「国」をつくる。これは希望の演出ではない。恐怖への対処としての制度だ。名札。役職。配給。防衛。規律。いかにも社会っぽい骨組みが立つ。だが、その骨組みは骨であって、肉ではない。肉は感情だ。肉は空腹だ。肉は「明日も生きたい」という単純な欲望だ。その肉が痩せたとき、骨組みだけが残って、骨は簡単に折れる。

 折れる瞬間は派手ではない。静かだ。

 昨日まで隣で笑っていた友だちが、今日は疑われる。明日には排除される。翔が爆発の犯人だというデマが流れる。根拠は薄い。だが薄い根拠ほど、集団に都合がいい。恐怖の責任を誰かに押しつけられるからだ。ここが楳図の残酷さで、同時に誠実さでもある。人は、納得できる真実より、楽な嘘を選ぶ。子どもも例外じゃない。むしろ子どものほうが早い。生きるための嘘だから。

 大友という優等生が崩れる過程は、そのまま「教育の優等生」神話の解体だ。合理的で、冷静で、正しい判断を下すように見える。けれど、優等生という型は、非常時に強いわけではない。むしろ弱い。正しさの配点で生きてきた人間ほど配点表が燃えたときに立っていられない。大友が抱えていた苦悩は、内面のドラマとして語られる前に、行動として噴き出す。ダイナマイト。逃避。責任転嫁。楳図は心理を説明しない。行動で見せる。だから、読者は逃げられない。「わかる」のほうが先に来る。怖いのはそこだ。

 そして、この作品は「子どもだけのサバイバル」では終わらない。現代側に残る母の物語が、もう一本の刃として刺さる。恵美子は信じ続ける。笑われても、白い目で見られても、殴られても、走る。薬を探す。テレビ局に乗り込む。この執念は美談ではない。ほとんど狂気だ。だが、狂気と呼ぶことでしか人は他人の真剣を処理できない。ここでも社会の薄膜が剥がれている。安全圏の善意は無力だ。無力だからこそ責め合いが始まる。責め合いは、助ける代わりにできる唯一の行為になる。楳図はそこまで描く。

 怪虫も未来人類も、もちろん恐ろしい。だが本当の怪物は、怪虫ではない。怪虫は仲田の妄想が具現化したものだ。つまり、恐怖が恐怖をうむ。飢えが妄想を育て、その妄想が現実の肉を食う。ここまで露骨に「心が世界を壊す」構造を描いた少年漫画は、そう多くない。しかも理屈ではなく、見開きの顔面と、汗と、泣き声でやる。楳図の目の描き方は、漫画の記号ではなく、病室の瞳孔みたいだ。開きっぱなしで、乾かない。
『漂流教室』には、成長物語の気持ちよさがない。正しく振る舞えば報われるという約束がない。協力すれば助かるという保証もない。むしろ逆で、正しい子から死ぬことすらある。だから読んでいて何度も息が詰まる。それでもページをめくってしまうのは、楳図が最後の最後で「無駄かもしれない行為」を否定しないからだ。誰かを助けようとする。手を握る。戻れないかもしれないのに戻ろうとする。戻れないならここで生きようとする。そこにだけ、温度が残る。熱ではない。小さな体温だ。

 救いがあるとすれば、全員が助かることではない。無傷で帰れることでもない。生き残った者が、背負ってしまったものを抱えたまま歩くことだ。罰みたいな責任。責任みたいな罰。それを引き受けて、それでも「ただいま」を言う場所を、未来のどこかにつくろうとすることだ。

 だからこれは、子どもの漫画ではない。子どもを素材にした、大人のための報告書だ。教育や道徳を語るときに、私たちがどれだけ安全圏に寄りかかっているかを容赦なく照らす。紙の上で読むのに、指先が冷たくなる。ページの隙間から、砂と汗が落ちてくる。

 いま読むべき理由はそこにある。未来の荒野は遠い寓話じゃない。薄い膜が一枚剥がれたとき、人間はちゃんと、あの顔になる。楳図かずおは半世紀前にそれを描き切ってしまった。怖いのは、古びないことだ。
(小学館 kindle版 979円~)


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