著者のコラム一覧
増田俊也小説家

1965年、愛知県生まれ。小説家。北海道大学中退。中日新聞社時代の2006年「シャトゥーン ヒグマの森」でこのミステリーがすごい!大賞優秀賞を受賞してデビュー。12年「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」で大宅壮一賞と新潮ドキュメント賞をダブル受賞。3月に上梓した「警察官の心臓」(講談社)が発売中。現在、拓殖大学客員教授。

強さの物語が崩壊した瞬間 『人間兇器』(全23巻) 梶原一騎原作 中野喜雄漫画

公開日: 更新日:

『人間兇器』(全23巻) 梶原一騎原作 中野喜雄漫画 

 
★あらすじ
 主人公の美影義人が、師匠の大元烈山を裏切って暴力の連鎖から逃れられない運命に引きずり込まれていく物語である。裏社会などさまざまなものの思惑に利用されながら、彼は世界をまわりながら次々と犯罪を重ねる。そこに英雄性や正義はない。あるのは、生きるために闘うしかない肉体と、空白のままの内面だけだ。暴力によって形作られた人間は、果たして人として生き直せるのか。冷酷で陰影の深い暴力漫画。


 昭和30年。横浜。伊勢佐木町のネオン。米兵の軍靴。ドブ川の濁り。便所に叩き込まれる担任教師。告げ口した女生徒の下半身がさらされる。補導の取調室で警部補に頭突き。少年鑑別所。特等少年院。出発点からして、救いの導線はない。美影義人は反抗する少年ではない。ただの暴力だ。理由は薄い。「黄金バットが嫌い」。その程度の動機で人を殴る。23巻にわたる長編の原動力が、その水準から上がらない。

 世界を放浪する。鹿児島、ニューヨーク、メキシコ、キューバ、ネバダ、ハワイ、沖縄。空手を握りしめ、裏切り、逃亡し、また殴る。桔梗十八郎に叩きのめされ、盲目の朝日奈薫子に返り討ちに遭い、それでも学ばない。強い相手には命乞いし、弱い女には残酷になる。人質を取る。写真を撮る。脅す。浣腸する。暴行と逃走の反復。拳はあるが、理由がない。

 それでも師匠の大元烈山は美影義人を救う。少年院から。地下プロレスから。マフィアから。CIAから。ネバダ刑務所から。烈山は後継者の資質を見ると言う。だが読者の目に映るのは、資質ではなく卑小さだ。命乞いのセリフは様式美に達する。「腕一本で許してくれ」「子供のために助けてくれ」。それでも裏切る。翌巻でまた逃げる。烈山が制裁し、また救う。その循環が、物語の構造になる。

 この作品に正義はない。守るべき弱者も設定されない。空手は精神修養ではない。修羅場を切り抜ける道具でもない。ただ行使可能な力だ。力を持った人間が、倫理を持たないときに何をするか。その観察が、ほとんど実験のように続く。暴力は意味を剥がされ、裸のまま置かれる。

 梶原一騎はかつて、暴力に物語を与えた。努力、根性、逆境、復讐。『巨人の星』では魔球に詳細な意味を付け、『空手バカ一代』では大山倍達に神話をまとわせた。光と影を分けた。だが『人間兇器』は裏側に徹する。光はない。成長もない。悔悟もない。空手はただの武器で、持ち主は小物だ。敵を倒して女を奪うのではない。先に女を襲い、写真で脅す。悪党としての美学すら崩れる。

 読者の評価が割れるのは当然だ。今なら発禁級の描写も多い。荒唐無稽なご都合主義。乱暴された女が惚れ、証言不能になる。100人単位で同じ反応を示す。あまりの高さに、逆に現実感が消える。途中で投げ出す読者もいる。だが同時に、全巻を揃え直す読者もいる。心理描写の濃度、時代の空気、地下プロレスの湿気、酒場の喧騒、政治家秘書としての転身。世界情勢まで巻き込むダイナミズムは、漫画の域を超えている。

 美影はクズだ。徹底して生き汚い。だが、その生き汚さが一貫している。どこへ行っても同じ失敗をする。強さを磨くより、逃げ道を探す。拳は研がれず、錆びていく。最後に息子を守って死ぬ場面がある。それを良心の目覚めと読むか、追い詰められた本能と読むか。どちらでもいい。そこまでの22巻で、読者は十分に消耗している。この消耗は偶然ではない。梶原一騎自身が、強さを肯定する言葉を持てなくなっていた時期に描かれた。逮捕、連載中断、再開。酒。崩れる生活。制御不能の創作現場。それでも原稿は上がる。抑制されないまま商業誌に載る。権威と狂気が結びつき、誰も止めきれない。

 暴力を描く作品は多い。だが「なぜここまで描いたのか」という問いが、作品の外へにじみ出るものは少ない。『人間兇器』はそこに立つ。計算された挑発ではない。信じてきた物語が壊れたあと、それでも描くしかなかった痕跡だ。

 醜悪である。胸が悪くなる。爽快感はない。だが破綻とは言い切れない。これは残骸だ。梶原一騎が積み上げた神話の裏側に沈殿した澱。その澱を、あえてすくい上げた記録だ。読む者を選ぶ。拒絶されて当然だ。それでも、見てはいけないものとして封印するには、あまりに時代のにおいが濃い。拳だけが残り、理由が消えた世界。その世界を23巻かけて歩かせた梶原一騎の狂気。そこにこの作品の異様さがある。
(グループ・ゼロ kindle版 436円~)


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