森浩美さんが作詞家になろうと思った秋元康の一言 SMAP「SHAKE」「青いイナズマ」など40曲以上
森浩美さん(作詞家・作家)
                         SMAPのヒット曲「SHAKE」「青いイナズマ」や荻野目洋子、田原俊彦のヒット曲を手がけた作詞家で「家族」シリーズの作家として知られる森浩美さん。転機となったいくつかの瞬間を伺った。
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 僕がいわゆる業界に出入りするようになったのは高校2年の時です。
 僕にはひと回り年の離れた叔父がいて、その叔父から「友だちが文化放送のアナウンサーをやっているから、局に遊びに行くか」と聞かれて。当時は深夜ラジオ全盛の時代。そのアナウンサーの方は、チンペイさん(谷村新司)がやっている「セイ!ヤング」のニュースコーナーでニュースを読むことがあったので、実は名前を知っていたんです。大人気のチンペイさんに会えるわけですよ、もちろん、喜んで出かけましたよ。
 それから月に1度くらいかな、授業が終わると、当時住んでいた群馬の大泉町から、四谷の文化放送に通いました。そして悪事を覚える(笑)。
 当時は「おはようございます」と局玄関で挨拶すればノーチェックで入れた。「あれ、これって他の局でも同じか?」と考え、TBSに行ってみよう、日本テレビに行ってみよう、案の定入れた。更に歌番組をやっていた渋谷公会堂には楽屋口から堂々と入っていました。今は絶対に無理ですよ。おおらかな時代だったということですかね(笑)。
 そういう経験をしながら、大学受験をしたわけですが、見事に落ちちゃって。親には浪人して大学に行くように強く言われたけど、僕は浪人して伸びるタイプじゃないし、代わりにアメリカに行かせてほしいと説得して渡米。1年くらいで帰国したんですが、その後、親の手前、一応受験勉強を再開したものの、高校時代に知り合った業界の人に挨拶に行くと「将来、マスコミで働きたいという若手グループの面倒を見ているから、一緒にやってみないか」と誘われ、そのままズルズルと参加。ある時、そのグループで一番仲のよかった友だちに、「放送作家の先生に弟子入りするから付き添いで一緒に来てくれ」と言われ、くっついて行ったんです。その先生は青島幸男さん一門の放送作家の奥山侊伸さん。付き添いという立場なのに、奥山さんから「おまえも書きたいの」と問われ、なんとなく「ええ、まあ」と答えてしまい、弟子入りすることに。後に事実を知った奥山さんに「日本一失礼な弟子入りだな」といじられましたけど(笑)。
 師匠には、すでに20人くらいの兄弟子がいて、奥山一派のたまり場的な喫茶店が赤坂にあり、そこでみんな原稿を書いていたんです。その中に秋元康さんがいたんです。
 ある時、秋元さんが放送台本じゃない原稿を書いているのに気づいて「秋もっちゃん、何書いてるの?」と聞くと、最初は隠すようにしていたけど、「詞だよ」と教えてくれた。そして「なあ、森、物書きは一行いくら、一文字いくらで稼ぐようにならないとダメなんだよ」と言われた。でも、あれは、秋元さんが自分自身に言い聞かせているように聞こえたなあ。それから間もなく、秋元さんが作詞した稲垣潤一さんの「ドラマティック・レイン」がヒットした。
 その様子を間近に見ていて「俺も作詞家になろう」と思ったものの、ウジウジしていたら、師匠に「やりたいことが違うんじゃないか」と言われ、怒られることを覚悟して作詞家転向の話をすると、「ばかやろう、そういうことは早く言えよ」って(笑)。
 師匠はもともと歌手になりたくて北海道から上京。作詞家としても狩人の「アメリカ橋」の作詞をしていた。そういうこともあり、僕の背中を押してくれたわけです。だから、もし奥山さんに出会っていなかったら、もし秋元さんに出会っていなかったら、多分僕は詞を書いていなかったと思う。
 退路を断つために、抱えていた番組を、頭を下げて降ろさせてもらいました。その時、23歳。本心は1年くらいで売れると思ってたんですよ(笑)。
 でも、甘かったですね。せいぜいオリコンのチャートの30位くらいまでしかいかない。それじゃ、依頼、引きがないんです。だんだん、根拠のない自信みたいなものもなくなり、弱気になっちゃってね。
                    

                                        
















