近代洋画の父・黒田清輝は法律家をめざしていた
日本近代洋画の父といえば、黒田清輝(1866~1924年)だが、初めは絵描きをめざしていなかった。父は、薩摩藩奉行役から明治政府の官僚になった人物で、黒田は英語と法律を学んでいた。明治17年にフランスに渡ったのは、法律の勉学のためだった。ところが、先にパリにいた画家たちに「君が法律を学ぶよりも、絵を学びたる方、日本のため」と勧められ、画家をめざすようになる。
若い頃に半年ほど絵を学んだ時期があり、「絵の下地がある」と言われたことも影響したようだ。当然、父は反対する。官僚の父が、法学のために留学させたのに絵描きになりたいと言われたら、「絶縁だ!」と怒ってもおかしくはない。しかし、周辺の人たちの勧めもあり、父親は理解していったようである。
その後の黒田の活躍は目覚ましい。明治24年、フランスのサロンで《読書》が入選し、翌々年に描いた《朝妝》も入選する。
帰国し、内国勧業博覧会に《朝妝》が展示されたが、これが物議を醸した。フランスの女性がヌードで鏡を見ている絵だったからだ。これが「裸体画論争」となったが、博覧会責任者である九鬼隆一は撤収しなかった。
黒田は制作のみならず、近代洋画の普及や教育などに力を注いだ。明治29年、白馬会の結成(青木繁らを輩出)、日本初の官立展(文展)の設立に関与、東京美術学校の西洋画の指導者など、その功績は数知れない。