可愛いのは“実の娘”の子どもだけ…義母からの孫差別に苦悩する妻。なぜ「うちの孫」と言われない?
第一子誕生後に義母に抱いた違和感
幸せなはずの新婚生活に影を落とす、姑との問題。令和の時代でも根強く残る嫁姑トラブルに直面したケースをご紹介します。
友人の里美(33)は、結婚して3年目に第一子を出産した。産後すぐから義母の協力を得ることもあったが、ほどなくして違和感を覚えるようになったという。
「義母が電話で“孫がね〜”って話すとき、それがいつも“娘の子”のことなんです。息子であるうちの夫の子、つまり私の子どもの話は“○○ちゃん(=私)のところの子”なんですよ」
最初は気のせいかと思っていたらしい。けれど、義母の会話を注意して聞くうちに、どうしても引っかかるようになった。
例えば、近所の人との立ち話でも「うちの孫がねぇ〜、この前運動会で一等賞だったのよ!」と嬉しそうに話す。その“うちの孫”は義母の娘――つまり義姉の子ども。
一方、里美の子については「○○ちゃんのところの子も、もう歩くみたいよ」と、どこか他人行儀な言い方。
「別に、うちの子を特別に可愛がってほしいとかじゃないんです。でも“うちの孫”って言われないだけで、なんか“うちの家族じゃない”って言われてるみたいで…」と里美は少し笑いながらも、どこか切なそうに言った。
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関わった時間の差?
確かに、血のつながりだけ見ればどちらも“孫”に変わりない。でも、“娘の子”と“息子の子”とでは、義母にとっての心理的距離が違うようだ。
娘の出産となれば、妊娠中から出産、育児に至るまで、母親である義母(=祖母)は常にそばで見守れる。
娘が実家に里帰りしていれば、夜泣き対応も沐浴も一緒に経験する。「娘と孫を育てた」という実感が生まれるのだ。
一方、息子の嫁が出産した場合、義母はどうしても“気を使う側”になる。遠慮もあるし、「手を出すと嫌がられるかも」と一歩引いてしまう。結果、関わる時間が減り、情が湧きにくい。
ある意味、“うちの孫”と“○○ちゃんの子”の差は、愛情の差というより“関わった時間の差”なのかもしれない。でも、それを理解していても、嫁の立場からすると複雑だ。
「悪気がない」が一番厄介
里美がその違和感を夫に打ち明けたところ、彼は苦笑しながら「母さん、悪気ないよ。たぶん無意識」と言ったという。
悪気がない――その言葉がいちばん厄介だ。悪意があれば距離を取れる。でも、無意識の差別はどこにでも染み込むように存在し、気づいた側だけが傷つく。
「義母に悪気はないってわかってる。でも“うちの孫”って言葉を娘の子にしか使わないのを見ると、やっぱりもやっとします。私たちの子も同じように生まれて、同じように成長してるのに」
そんなある日、家族で義母の家を訪れた際、リビングに飾られた写真立てが目に入った。
義姉の子どもたちが笑って写る写真が5枚ほど。その隣の棚に、小さな額に入った息子(=里美の子)の写真が一枚だけ。
「お義母さん、うちの子の写真も増やしてくださいね」と言うと、義母は「もちろんよ〜、この額がちょうど空いてたの」とにこやかに答えた。
自然な距離だと納得
その瞬間、里美は「ああ、これが“距離”なんだ」と悟ったという。悪意ではなく、自然な距離。義母にとっては、娘の孫が“日常の中の子ども”で、息子の孫は“時々遊びに来る子”という認識なのだ。
「もう期待するのはやめました。私たちは“○○ちゃんのところの子”でいい。それでも夫の実家に行ったときは笑顔でいようと思ってます。義母の中では、それが自然な序列なんだと思うから」
そう話す里美は、少し肩の力が抜けたように見えた。孫差別――それはきっと、意地悪や好き嫌いではなく、「どのくらい生活の中に存在しているか」で決まるのだろう。
けれど、言葉の端々に滲む“温度差”は、確かに存在している。「うちの孫」と呼ばれる子と、「○○ちゃんのところの子」と呼ばれる子。
その小さな違いの裏には、家族の距離という見えない線が引かれている。そして、その線を最初に感じ取るのは、いつも“嫁”なのだ。
(おがわん/ライター)


















