徳川光圀(1)水戸黄門は全国漫遊などしていない 主に出かけたのは江戸と領地の往復
ぼくらは普通、尾張家、紀伊家、水戸家を御三家と呼びます。でも、もともとは尾張家、紀伊家、そして徳川宗家を指したというんですね。水戸家は紀伊家の分家扱い(紀伊藩祖の徳川頼宣と水戸藩の徳川頼房の生母は同じ女性)だった。尾張60万石、紀伊55万石に対して、水戸は28万石。石高に大きな差があるのはそのためだそうです。
ところが江戸時代が進むにつれ、将軍家は別格の存在となりました。そこで宗家を外し、水戸家を加えた「御三家」という理解が定着していく。水戸家は、実力や石高では尾張・紀伊に及ばない。しかし徳川一門の中で、独特の思想的な重みを持つ家になっていきます。その中心にいたのが光圀でした。
「黄門」とは、中国の官職名です。日本の中納言に相当するとされ、中納言に任官した人を黄門と呼びました。ですから「水戸黄門」とは、水戸の中納言という意味です。ちなみに、黄門の正式名称は黄門侍郎ですが、肛門痔瘻ではありません……いや、これは失礼。
光圀は、会津の保科正之、岡山の池田光政と並び、江戸前期の三名君に数えられてきました。儒学を奨励し、歴史を重んじ、彰考館を設けて「大日本史」の編纂を始めた。これがのちの水戸学につながり、幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えたとされます。


















