教授と学生の激論 学生が勝った米国ならではの理由とは
実を言うと、拙僧が剃髪したのは晩年のことじゃ。それまでは、家業が嫌で、あれこれと職業を変えたり、放浪を繰り返した。そんなわけで、何一つ身についたものはないが、思い出だけはどっさりじゃ。そのひとつがUCLAバークリー分校を訪ねた時のこと。
バークリーはサンフランシスコ近郊の小さな街で、知識人が多く住み、ここから発信されるメッセージが、全米に大きな影響を与える。1969年、米国はベトナム戦争で揺れていた。拙僧が乗ったバスが街へ入ると、状況はとんでもないことになっていた。
街角には戦車が止まり、ヒッピーや学生たちが、警官隊に追いかけられていた。街全体が白煙に包まれている。バスが大学前の停留所に止まると、武装警官が現れ、いきなり催涙銃をぶっ放した。拙僧も乗客も外へ飛び出したが、呼吸困難で地面を転げ回った。後で知ったが、これは歴史に残る〈人民公園戦争〉だったという。公園の使い方を巡って、大学理事会と学生が対立し、暴動に発展した。このドサクサにつけ込んで、反体制運動の拠点になっているこの地を抑えようと、レーガン州知事(後に大統領)が州兵を送り込んだ。